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SOSOの素(7)

面倒くさい

歯磨きもお風呂も勉強も片付けもやらずにやりたいことだけやって過ごしていければ幸せだなーなんて子供のころ思っていた。面倒くさいことっていつまでもなくならないし、いつも自分の周りをコバエのように飛び回っている。
もういい大人なので今はそんなことは思わないけど、面倒なことに直面した時はやっぱり誰かが代わりにやってくれたらもっと自由でのびのびと楽しく過ごせるのにーとのび太くんのようなことを思ってしまうこともある。今ではその心の隙をつくかのようにお金さえ払えば全て代行してくれるサービスもある、食事も掃除も洗濯も。お風呂や歯磨きまではまだないけどね。
だけど生きると言うのは面倒なことの連続だね。

僕は昔から要領がいいタイプである程度のことはそつなくパパッとできることが多い。その反面、こつこつと積み重ねるようなことや同じ作業の繰り返しは苦痛で苦手。苦手なのがわかってるからこのところは根気強く向き合っていて少しずつ改善されてきた。
要領良くやることとコツコツやることは僕を中心に両極にあるような感じでそこを行ったり来たりしている。

面倒なことと苦手なことはとても近くにある。僕の苦手なコツコツとやることを全く苦にしない人もいるし、逆に要領よくパパッと全くできない人だっている。苦手なことは苦手だから少しずつ自分に馴染む方法を探しながら寄り添うような感じで付き合っていくとちょっとずつ改善されていくけど目を向けること自体面倒なことが面倒くさいの難しいところ。

そもそも生きると言うのは面倒なことの塊でやらずに済むならそれがいいのかもしれない。食事なんかでも買い物に行って、下ごしらえして、調理してやっと食べれる!と思ったら瞬く間に食べ終わって後片付け。嬉しいのは一瞬でその一瞬以外は全て面倒なことだらけ。でも面倒なことを忌み嫌わず仕方がないねーとか言いながら付き合ってみるとその先に得意なことだけでは味わうことのできない喜びや楽しさがやってくる。そんな経験をしていくと生きる上での面倒ことは自分の土台や基礎になり、その上に喜びや楽しさが培われていくことがよくわかる。

楽しいことと面倒なことはいつでもセットで楽しいことだけではやってこないし、楽しいことだけやってきたとしてもきっとそれはいつか飽きてしまう。だから面倒なことがやってきたら「面倒だなー、このやろう」と言いながらやっつけてやろうと意気込んだり「はいはい、ささっと終わらせましょうね」と淡々と対処していくと面倒くさいこともひとつのイベントになって嬉しいと1セットになり、面倒くさかったことと嬉しいことがしっかりと思い出になってくれる。

そう考えていると面倒くさいって実は楽しいことなのかもしれないなんてことまで思うようになってきた。

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