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源平合戦 一ノ谷と鵯越の謎

小学生の頃からず~とすっきりしないままだった「須磨一ノ谷、鵯越の坂落とし」の謎について、約半年前に見た歴史番組で納得ができて以来訪れたいと思っていた一ノ谷を歩いてきました。
すっきりしなかったのは「須磨の一ノ谷の戦い源義経鵯越の坂落としの騎馬奇襲で源氏軍が劇的な勝利を収めた」という一ノ谷鵯越の位置関係。

一ノ谷は六甲全山縦走路の西の出発点である須磨浦公園の近く(神戸市須磨区、山間部が海岸線まで差し迫り平野部が非常に狭いことで知られた地区)で、そこから須磨アルプス・高取山などを越えた先にある鵯越(神戸市兵庫区里山町、神戸電鉄「鵯越駅」がある一帯)までは直線距離で7㎞以上、縦走路を歩くと約16㎞。
なぜ一ノ谷の急峻な断崖を騎馬で駆け下りた義経の戦法を鵯越の坂落としと称したのか?というのが長い間自分のなかでの疑問でしたが、源平合戦・一ノ谷の戦いで言われる鵯越は神戸電鉄が通る鵯越駅の地名ではなく、一ノ谷の裏手に広がる旗振山と鉄拐山の間の鞍部=峠のことを指す、というもの。
中世は山と山を結ぶ峠が国境(くにざかい)になることが多く、境界の標(しるし)を立てたことから「標・ひょう」が転じて「ひよ」となった説明に合点がいきました。番組では説明されていなかったのであくまで推論ですが「ひよとりおく」峠がある鞍部の地形を指す言葉をひよどり・鵯と呼んだのではないでしょうか。

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板宿から馬の背で知られる須磨アルプスを歩き、義経が越えたであろう鉄拐山と旗振山の中間の鞍部・峠部「ひよどり」(写真上)に到着。この「え」て義経が駆け下りたと言い伝えられている「義経道」は削れた花崗岩の小石が多く混ざる尾根道(写真下)。

0707小石混じりの尾根道

進む尾根道は両側共かなり下まで急峻な坂道で、ここを下りた70余騎の騎馬軍団は相当高度な乗馬技術と勇敢さを持ち合わせた猛者だったことが想像できます。

2一ノ谷

平家贔屓だが義経は好き
平家ゆかりの地名や場所が多い神戸で育ったので、どうしても源氏よりも平家寄りで源平合戦を見てしまいがちです。
とはいえ、平家一門の中に好きな武将がいるというわけではなく、自分の弟・義経を生かしておけぬと執拗に追い、懐疑心が強くて冷酷な策略家の印象が強い源頼朝がどうしても好きになれない、という程度の好き嫌いです。一方、鞍馬で修行をしたり弁慶との逸話があったり、最期は奥州藤原氏に身を寄せたなど、生き方下手で損得勘定があまり無かった印象がある義経は憎めない存在で、こどものころから今に至るまで好きな武将の一人です。自分が今こうして歩いている道は義経軍が進み、一気に須磨浦まで達した地理的にも歴史的にも重要なポイントだったことを肌で感じつつ、当時に思いを馳せると感慨深いものがありました。

0一ノ谷から見た須磨

その義経や弁慶が駆け下りた進軍路を進み、麓の高台住宅地まで来ると安徳帝内裏(天皇の御在所)跡と安徳帝のご冥福を祈って建てられた安徳宮が。

06安徳天皇内裏址

「海の下にも都がございます」
安徳天皇(平清盛の孫、母は建礼門院)と言えば数え3歳で即位し、8歳という幼さで落命した悲運の帝。源氏から追われた平氏一門に奉じられて西走した安徳帝が外祖母二位尼(平清盛の妻時子、建礼門院の母)に抱かれ「海の下にも都がございます」と諭されて壇ノ浦に身を投じた(平家物語)ことを思うと、歴史に翻弄された運命がなんとも哀しく、同時に源氏に捉えられた母・建礼門院徳子の辛さやその後の京都大原・寂光院で過ごした人生、海底に沈んだ三種の神器のうちの宝剣など、この地を訪れてみて、1185年にタイムスリップしたようで、平安末期から鎌倉へと移る転換期に起きた多くのことが偲ばれました。

安徳宮

今回歩いた「板宿~須磨アルプス~栂尾山~鉄拐山~一ノ谷~須磨海岸」のルートを歩くハイキングツアーを7月17日(土)に予定しています。
ご興味がある方は下記Facebookイベントページで詳細をご覧ください(Facebook友達が対象のツアーです)。
https://www.facebook.com/events/316547760186884?ref=newsfeed

ツアーでは鵯と呼ばれた峠部から少し(10分程度)歩き、明石海峡大橋の眺めが良い旗振山まで足を伸ばす予定です。

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最期までお付き合い頂きありがとうございました。

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