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こだわり過ぎると発酵しない

先日、とある展示会で、面白い光景に遭遇した。

とある会社が販売している商品を「こだわって造った」と表現している一方で、同じ展示会で販売している競合商品を「あれはウチの真似なんですよ」と評していました。
で、その足で競合会社のブースに行って話を聞いたところ「うちのは伝統を守ってこだわって造っているんですよ。ウチこそホンモノ」と仰る。

どちらの会社も悪気はないだろう。
理由や歴史、経緯があって、自社製品に対する愛、思い入れが昂じて
のことなのだろう。(特許などの事由もあるかもしれないが)


「こだわる」という言葉は、現代では肯定的に使われている事が多い。
こだわりの逸品
こだわって造った◯◯
のように、各人がそれぞれの想いや価値観に沿って
丹念に、精魂込めて 作った そういった意味合いが多い。

しかし、辞書を紐解くと、こだわる には否定的な意味合いが
以前は明確にあったそうです。
小さいことに気持ちや言動が拘泥される=拘ってしまう
そういったネガティブな意味が主たるものだったそうです。

そこで、展示会での風景に話を戻したい。
両社とも、深い思い入れや製法への信頼、お客様への想いなど
そこまでは、こだわって良かった部分であるはず。

それが昂じて(行き過ぎて)
他社製品を批判する、貶めるような言動にまで至ってしまうのは
コダワリ過ぎてしまっている=囚われていると感じたのです。

こうした事例は、私達の職場や環境でも生じていないだろうか。
こだわる=全身全霊を込めて仕事に全精力を注いでいる
なら良い範囲、レベルだと思うが、時に行き過ぎてしまい
コダワル=これが正解だ、これが非効率だ、今までこうだった
に陥っていることはないだろうか?

少なくとも、私自身はそういったシーンや思考回路に陥っている時が
少なからずある。

そうなってしまった場合は、もちろんあまりうまくいかない。
対人関係でのモヤモヤや自分の中に不快感が生じたりするだろう。
もっといえば、頭がクリアにならず、余計なことに頭を割いている状態になっている、そんな事態に陥っている。

さらに、本来の目的やゴール、ビジョンから遠ざかっていたり、大切な人とのつながりがないがしろにされていたり、大切なことが抜け落ちている状態にもなっていないだろうか。

これでは、発酵する思考やマインドになれていないし
本来の目的地に到達しにくくなっている状態だ。

こうなったらいいね~
よし、これやってみよう!
もしかしたら、別の方法でやってみない!?
という発酵マインド、意識状態にコダワリすぎるとならないのである。


こだわりは大事
だけど、こだわりすぎはモッタイない。

そう感じた、展示会での発酵事例でした。


2024年6月9日
組織発酵学プロデューサー
原 佳弘


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