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毒を喰らうということ~組織発酵学から

組織の成長などの仕事をしていると、いろいろな人に逢います。毒を吐く方、破壊者のように他人を傷付けてしまう人、無関心で何事もやり過ごそうとする人、表向きは良い顔して、裏で何を考えているか分からない人など。

この中でも、私は毒を吐く人は、結構好きです!
関心があります!
無関心、響かない人よりはお付き合いしやすいと思っています。
もちろん全員が全員ではありません。
想いがある、想いに共感できる、そんな共感できる毒を持つ人です。

どうしてそういった方に興味を持つようになったのか、というヒストリーはまた別の機会に譲るとして、組織発酵学のヒントともなった「毒を喰らうことの意味意義」について今日はお話ししたいと思います。

一言で言ってしまうと、私自身が毒を喰らったことで成長できた、からなんです。そして、自分自身も毒を持った、毒を吐く人でいいや!と手放せたことが、毒を持つ、毒を喰らうことって大事だな、と思えたのです。

もう少し丁寧に説明しますね。
毒を喰らったこと・・・言い方を変えると、自分の耳に痛いこと、あるいは自分が求めていないのに、違和感を感じること、ザワザワすることをぶつけられる。これが毒を喰らった状態だと私は定義しています。

こうした状態、普通は避けたいし、逃げたい、なかったことにしたい、耳をふさぎたいですよね。私自身もそうしていました。

しかしある時、その毒を喰らって、毒が身体をやや廻ったぐらいの状態が、なかば心地よいと思えてきたのです。言うなれば、今までの価値観や基準を、一旦手放すというか、手放さざるを得ない、自分の判断を止める、焦って前に進むのを停止する、そんな状態です。

あー、あいつの放った毒が身体を蝕んでいる、、、だけど、、、なんだかこれにも意味があるはず、、、う、、、痛い、、、しかし、、、いつか笑って話せる日が来るはず、、、、

こんな感じですね!ハイ!苦笑

で、この痛い状態をしっかり通過したことで、しばらくしたらいくつかのことに気付いたんですね。あれ、いつの間にが、痛みを忘れている、、、あれ、あの時の毒って何だったんだろう、毒を吐いた人は良い意味で私に何かをプレゼントしてくれたのか!?と、俯瞰して捉えられるようになったんです。

いわば免疫力があがったような
いわば骨が太くなったような
毒を喰らって鍛えられたような感じがしたんです

さらに、毒を持つ人達を観ていたら、、、あら、そういえば自分も沢山毒を持っているし、毒を吐く側の人間だっった!!!ということに(遅ればせながら)気付きまして、、、苦笑
毒を吐いて、自分が毒にかかったこともあるなぁ、、と。。。

そして「自分がなぜ毒を吐いたか」を分析してみると、単純に不平不満を言うだけの愛のない毒と、意味や意図をもった愛のある毒の両方があるなあ、、と。

ここから、毒を喰らうことは決していつも避けるべきことではないんだな、そして毒を吐くことも、全てが全て悪いことではないのだ、と気付いたのです。

組織発酵学においても、発酵と腐敗の関係性についてお伝えしていますが、毒とは人体に有害な作用を及ぼすために、忌み嫌うべきものとして定義されますが、それさえも「捉え方」次第、ということをお伝えしています。

逆に無菌状態こそ異常であり、生物の世界にはありえないこととされています。人や組織も無菌状態になるのが一番ではないことともつながっているはずです。今の組織や会社は、あまりにも無菌状態を目指し過ぎ、と思うのは私だけでしょうか。

毒を喰らって、のたうち回るプロセス
毒を吐くことで、その毒は何のために?と感じれること
(決して、悪い毒を吐くことを止めなくていいと思います)

このような「捉え方」「毒を感じるプロセス」「毒を吐くことで自分を見つめ直す」こんな意識、視点、考え方、を組織発酵学では、大切にしています。

組織発酵学®プロデューサー
原 佳弘


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