見出し画像

審判人生を振り返る(中編)

前編では18歳〜22歳の間に経験した様々な年代の
試合についてカテゴリー毎にザッと紹介しました。

今回の中編では
「なぜ選手ではなく審判の道を選んだのか?」
についてありのままを綴ります。


初めて会った人にサッカーの審判をやってます!
と言うと大半の人は頭に「?」が浮かびます。

無理もない話です。そこで必ず聞かれます。
「なんで選手じゃなくて審判なの?」
いつも悩んでこう答えます。珍しいですよね〜と。

ですが本心を文字に起こすとこうなります。
「わからない。気づいたら好きになっていた。」
これが答えです。まぁ理解できないですよね(笑)

審判仲間から聞いたことがある例としては

・選手では上を目指せないから
・顧問が1級や2級の資格を持っていて憧れたから
・友達に一緒にやろうと誘われたから
・チームのために資格を取らされた流れから

この辺りが相場なので審判仲間の中でもレアです。
そこで小学生の記憶を遡ってみることにしました。

5歳からサッカーを始めたのですが一番古い記憶では
8歳の時にスポーツ用品店に行った際これが欲しいと
親に買って貰ったのが「笛」と「カード」でした。

そこから所属していたクラブの練習で2年生ながら
にボールを蹴らず笛を吹かせてもらっていました。

当時はもちろんルールもちゃんと分かってない
のでカードを出しまくってた記憶があります(笑)


夢が明確になった出来事が10歳の学校行事だった
「二分の一成人式」です。今もあるのでしょうか?

周りはスポーツ選手になりたい!などが並ぶ中で

20年後ワールドカップに出るぐらい
すごいサッカーのしんぱんになる!!

と書いてました。このnoteを書くにあたって母親
に聞いてみると何と当時のものが残っていました!

おそらく先生がなりたいと書いてた所を黒塗り
してなる‼︎に直すほど本気だったんですね(笑)

なぜこれを書いたのかを考えると当時は2006年。
ドイツでのワールドカップが開催された年でした。

この大会には2名の日本人が参加しテレビで上川徹
さんの特集を見たことがきっかけだったと思います。

余談ですがもう1名の廣嶋禎数さんとは前編で紹介
した中国の研修会でご一緒できとても光栄でした。

その特集で「プロフェッショナルレフェリー」と
言う職業があることを知り、そこで審判を仕事に
生活したいと「将来の夢」が決まった瞬間でした。


以上が選手ではなく審判の道を選んだ理由です。
結局なぜ審判を好きになったのかはわかりません。

一つあるとすれば審判で使う「笛・旗・カード」
などの道具が好きと言うのはあったと思います。

小学5,6年生の頃にその道具を収納するレフェリー
バックを買って貰って喜んでいたと聞きました。

そして何より憧れがあったのがJリーグの審判員が
使うインカム(コミュニケーションシステム)です。

インカムのある職場を求めてユニクロでアルバイト
をしてたこともあります。今考えるとインカムを使
う仕事は他にもいくらでもあるんですけどね(笑)

現在は訳あって活動休止中ですが復帰してもう一度
審判活動を続けたいと思う理由は明確にあります。

懸念していた通り前後編では収まらなかったため
今回を中編とし、復帰して続けたい理由についても
後編で以下のテーマと共に書きたいと思います。

「なぜ1級審判員を目指す人間が移住と農業を掲げる
クラブのマネージャーになろうと思ったのか?」

最後まで読んでいただきありがとうございました。

2017/05/31(当時21歳)@枚方市立陸上競技場

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?