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どんなことにもプロセスと表裏がある話

こんばんは、sosekiです。
Twitterが一日の何割もの時間を埋め尽くしているタイプの人間、その一人です。今日はそんな一コマを議題に思うところを書きます。

言いたいことはシンプルで、
「言論の自由という暴力」の話です。言論の自由は憲法によって保障された平等な権利ですね。Twitterは特に、ハンドルネームを用いた半匿名なツールの分、発言の敷居が低いのが魅力です。だから、皆いろいろなことを好き勝手言うことができます。

例えば、とある新しい列車ができました。この列車にはデビュー前後で愛称が公募により設定され、決まったことから車体にもロゴを掲示しようと、デザインが考案され、とうとう掲示されました。

ところがこのロゴに対して、Twitter上では即日、「ダサい」「車両に合っていない」「引き算のデザインになっていない」「詰め込み過ぎ」「でかすぎ」「古臭い」など、否定的なツイートが並びました。もちろん、デザインというものに対して個人がどのように思うのかは自由ですし、発言も、自由です。基本的に。

先に私の想いを書くと、そのデザインに対しての主観的な感想としては、私もどちらかといえば苦手な表現です。もっとシンプルにデザインするほうが、「長い期間愛されるのでは」と思いました。ロゴなどをデザインするときは、その時点から向こう5年、10年、20年と愛されることを目指すようにしており、デザインの普遍性や流行性を強く意識するのですが、そういう観点では改善点を感じます。大きさもメンテナンス性などを鑑みれば気になるところです。

さて本題。
以前書いたことがあったかもしれませんが、「ネガティブは連鎖する」のです。誰かが大声で悪口を叫べば、周りもどんどん同調していく。それが人間の集団心理です。

今回のロゴも、瞬間風速的にはほぼ否定的なツイートばかりが目に留まり、肯定的なツイートが埋もれている印象でした。

本題の本題です。

デザインは、オナニーではありません。特にロゴデザインは。
検討から使用に至るまでの間に、たくさんの人と時間と知恵が費やされて生み出されます。特にコミュニケーティブなデザインは、様々な観点から熟考されてアウトプットされます。
そこにどんなプロセスがあったのかを知る方法はなかなか無いのですが、少なくとも生み出した人が存在します。

このことを知ったうえで、「言論の自由」を行使してほしい。
それが今日の私のメッセージです。
何度も言いますが、言うのは自由です。全く否定もしません。感じたことを好き勝手に言って良いと思っています。
ただ、万物にはそれを生み出した人がいるということだけは、忘れないで欲しい、と思います。

デザインは、芸術領域のひとつとして捉えられる技術です。
そのなかでも特異な、「たくさんの人に認められ利用され愛されることが目的となる」アートです。それだけでも生み出す難しさ、苦しさは想像に難くないと思います。
私は所詮底辺のアートディレクターですが、それでも死ぬほど悩んで、めちゃくちゃ時間を費やして、その先に結果が生み出せるよう検討を重ねて重ねて重ねまくって、何かをアウトプットします。だから、それが成功したときは滅茶苦茶嬉しいですし、否定されたときはとても辛く、一方でビジネスですから猛省します。

そんなプロセスを頑張っているから、ツイッターを見ていると、
時々心臓が痛くなるんです。

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