twitterアーカイブ+:ルギアの太腿に寄せて、性衝動と無限性

性的さの本質を再考する

 美少女の文化に関わっていると、「“性的である”とはどういうことか」ということを再考せずにはいられない。性表現としての側面が美少女表象の文化全体を支えていることは無視できないし、美少女という言葉の定義も「性的」という言葉の定義もどうやら時と共に拡張していくように見えるからだ。

「“性的である”とはどういうことか」という議論の例として、例えば美少女がどこまで服を脱げば性的かという話は分かりやすい。しかし、諸君、次のような例はどうだろうか。

 あるいは、次のような例は。

最近「パートナーが"白人女性が鉄道模型を踏み潰すポルノ映像"でしか興奮できないことを涙ながらに告白してきた時の人間の感情」について考えており、その資料として"白人女性が鉄道模型を踏み潰すポルノ映像"を視聴しているんだけれどもこんなに自我が揺らいだことは無いね  https://pic.twitter.com/JYSGZotsrv

(他人の消されたツイート)

あのね、わかんないんすよ。何でなのか本当にわっかんないんすよ。何なのかもわっかんないんすよ。でもなんか興奮できるような、これで興奮する人間の感情は理解できるような、そもそも興奮って何なのか、これで興奮するのって端的にあかんのじゃないかとか、いや興奮なんじゃないかとか、とにかく混乱 https://pic.twitter.com/SujHu5HyJy

(他人の消されたツイート)

 このような、連想によって生殖と結びつけることの難しい表現が、それでも性的絶頂に至るような快楽の呼び水として機能することができるのはなぜか。この疑問に対して私は、様々なフェティシズムに共通する要素を抽出することで答えようとしてきた。そのためにはフェティシズムを細かい構成要素に分解しなければならないが、その分解をするにあたって、人間の性別や生殖にまつわる概念はもはや用をなさない。

 キャラ造形やシチュエーションを虚心坦懐に見て、何が興奮を引き起こしているのかを自分に問い、仮説を立て、次の表現を見る際に仮説を検証する。私はそれを、美少女表現の自由な市場を守るという実益のために、そしてそれ以上に知的快楽のために、続けている。

圧迫と不連続(~2018)

 ルギアの頃には、私はサイズフェチを切り口としてフェティシズムを分析していた。従ってフェティシズムを語る語彙も、自ずとサイズフェチに寄ったものになる。

 性衝動と呼ばれているものの根源が「性」だと考えるから、分からないのだ。列車を踏み潰すのが白人女性であるだけまだ親切だが(全員同じようなサンダルを履いているのは芸がない)、これが怪獣であってもラピュタであっても本質は変わらない。「圧迫」と「破砕」とはヒトの原風景だ。

 先程のルギアで抜いた話を(RTした後に)読んだのだが――これこそが、私が万人にやってもらいたいことなのだ。「太もも」というありふれたオカズを、「白色性」「受容性」「暴力性」へと分解・再構築し、それらの要素を満たすものとして大福やパンダでも抜いてみる。欲望を分析するとはこういうことだ。

 世に広く知られているエロのジャンルは、皆「分解能」が低い。それらは、もっと根源的な欲求の組み合わせなのだ。旅行保険のプランが死亡や疾病治療の組み合わせであるようにだ。自分が何の欲求を刺激されて抜いているのか分かれば、もはやルギアか大福かは大した問題ではない。どちらでも抜ける。

 この「根源的な欲求」の階層に、射精やセックスは含まれていない。射精は結果に過ぎず、セックスは旅行保険プランに過ぎない。この階層に含まれるのは、まさしく「受容性」や「暴力性」だ。人はそれらに刺激されて性感を得る。暴力性が含まれることに気付いたところが筆者の慧眼と言えよう。

 もちろん、「異性の身体」というジャンルも、全く同様に分解できる。男性が女性に抱く欲望なら、「受容性」は簡単に分かるが、もしかすると「暴力性」の方は男性自身によって担われているかもしれない。そうなら、これは異性の身体への欲望に見えて、実はシチュエーションへの欲望でもあるのだ。

 そのように考えれば、「ルギアの太腿に押し付けられる妄想で抜く」は、「ラティアスのペニスを愛撫する妄想で抜く」よりも分解と再構築の進んだ状態のように私には見えるが、比較すべきものでもない。ラティアスとルギアの肌の質感は似ているが、ラティアスは背負っている文脈が特殊なのでな……。

 性衝動にとって、相手が人間であるか人外であるか、生殖を伴うか伴わないかなどというのは、どうでもよいことなのだ。全く別の機構だった性衝動と生殖が、進化の過程でたまたま協働するようになったのではないかとすら思う。先日私が「『異形』という括りは雑」と述べたのもそういう事情だ。

「白色性」「受容性」「暴力性」を満たすものの例としては――私は「白色性」は「球体性」のことではないかと思うのだが――『うしおととら』でとらが飛行機を持ち上げる場面、あれが物凄く抜けると思うのは私だけだろうか? これは、欲望の分解と再構築を経てみれば、ルギアの太腿と地続きではないか?

 また、私がかつて聞いた話に「ビデオテープがトラックに轢かれるところを想像して抜く男」というものがある。これも同じではないか? トラックの車体の白と滑らかさ、タイヤのゴムまたは可動部であることから連想される受容性、車体の重量とビデオのカセットの硬さから連想される暴力性……

 同じ要素を持つものでも、それらの配分には無限の可能性があるのだし、最初に何のフェティシズムに出会うかによっても変わる。重要なのは、「ジャンル」をもっと突き詰めて分解することができると知ること。そして自分の欲求を真に知るために、想像力を駆使し、かつ欲望のサンプルを蒐集すること。

 欲望の分析と聞いて、あらゆるフェティシズムについて「それが現実の異性への欲望とどう関係しているか」に還元して理解することだと早とちりする者は多いが、私が言っているのはその先、「では、現実の異性への欲望は何でできているのか」を探れということなのだ。

 例えば「ピカチュウ姦の趣味は、子供への欲望が屈折したものだ」と述べる者がいたとしよう。さらに「子供への欲望は、成人の異性への欲望が屈折したものだ」とも続くともしよう。ならば、「成人の異性への欲望」が全ての答えだろうか。そうではない。成人の異性への欲望は、一体何からできているのか?

「成人の異性への欲望」という言葉で、考えるのをやめにしないこと。これだけで、エロやオタクや青少年健全育成を巡る議論は大きな転回を迎えるだろう。生殖などという血も涙もない目的論ではなく、あくまで現に起こっている心の動きを正確に言葉にするために、欲望の裏の欲望に目を向けねばならない。

 従って、私は「現実とフィクションの区別」という言葉をほとんど信用していない。滑稽だとすら思う。例えば今の我々には、人間と魚は全く別の生き物に見える。それを、初めからその姿で神が創ったと考えるか、カンブリア紀まで遡って共通の祖先を突き止めるか。

 共通の祖先がいることは、今は似ても似つかぬ生き物だということを否定することにはならない。今日の我々が魚を捌いて食べることを、まさか人間への猟奇趣味と結びつけはしまい。その意味での、どの水準での区別かを適切に定めて「現実とフィクションの区別」と言うならよいのだ。

 従って私は、「フィクションのエロを肯定する奴は現実の性暴力をも肯定する」という主張を「魚を食べる奴は人を食べる」と同等だと見做し、「現実とフィクションはあらゆる意味で全く違うもの」という主張を「魚類と人類は別々の惑星で誕生した」と同等だと見做す。極論はやめて科学をやりたまえ。

「無意識は肯定文と否定文の違いも時間も場所も区別しない」という自己啓発本の言説(これ自体は正しいが)が容易に受け入れられる一方で、「無意識は現実とフィクションを区別しない」は受け入れられないらしい。区別は意識のレイヤーで初めて起こる。

 無意識のレイヤーでは同じだからこそ、フィクションへの欲望を研究することは現実への欲望を研究することにもなる。「欲望の構成要素は同じだが、配分がこのように違うので、欲望を実行に移す上で現実とフィクションを一緒くたにすることはない」とはっきりと言える。

 では、フィクションへの欲望を研究するためには何が必要かというところで、ようやく最初の(いつもの)話に戻るのだ。つまり、子供のうちから手に取ることのできる潤沢なエロメディア。欲望のカタログ。加えて、福祉と法律と自己決定権を教える大人。


 そうだ。そして、「物が圧迫される」「限界を攻める」ことの方が、性交よりも遥かに性衝動の根源に近い所に位置する。セックスへの欲望は、性衝動の風船が成長と共に膨らまされ、ディテールが均され、さらに社会通念という鋳型にはめられて整形されたものに過ぎない。

不快の快(2019~)

 サイズフェチ的思考と並行して、私は快と不快・サディズムとマゾヒズムが表裏一体であることについても考えていた。何となれば、対立物の結合こそは近代西洋魔術の基本思想であり、錬金術の根本原理だからである。

https://twitter.com/Sou0915/status/744866379472375808

(蟹が車に轢かれる動画)

 巨大娘を趣味にしている人間――巨大娘が趣味になってしまうような人間がこのようなシーンを見て何を感じるか、恐らく余人には分かるまいな。非難しているのではない。ただ、極度の不快感が極度に深い性衝動と同一物である事を、私はこの動画から知る。好条件下でこれを見れば私は射精すると思う。

「重さがかかる」という事、「圧迫される」という事、「潰れる」という事、「潰れて死ぬ」という事、これらは私にとって確実にトラウマと呼べるレベルで生理的嫌悪を催すのだが、何がそうした状況を生んだのか、何故人間が潰れて死ぬシーンだけは例外的に慣れているのか、未だに分からないのだ。


 セックスがそれ自体暴力であるかどうかなど、私は知らんよ。それは当事者が決めることだ。だが性衝動は即ち暴力衝動であり、自分と自分を生かしている世界とを木端微塵にすることを究極の目的とする。現実の他者への暴力など、それが屈折して外界へ投影されたものに過ぎない。


 分からんか。グロとエロが完全に同じものであることが分からんか。性衝動がセックスだけを指していると思うか。死こそが、その中でも圧死こそが最も純粋なエロであることが分からんか。性表現と暴力表現を読み漁り、自分の中で起こる情動を観察し、オナニーで確かめる習慣があれば、分かるだろうに。

 性の対象という言葉を、「それを想像するとオーガズムを促すもの」と定義するなら、諸君にもその広がりと深さの一端が想像できるのではないか。少なくとも男性の場合、性の対象に共通しているのは女体や生殖などではない。自分の肉体と精神、大切なものを汚し破壊する、死のカタルシス。

 あるSMバーのキャストが私に「『進撃の巨人』は猟奇的なところが好き」と語ったのは、単なる場所柄ゆえのリップサービスではない。人体を巨大な力で破壊すること自体が引き起こす原初的な興奮がある。何をエロと思うかは人それぞれとは言うが、根底に共通している性質もあるのだ。

 これを念頭に置けば、特殊性癖の筆頭とされるドラゴンカーセックスが、実は非常に自然で純粋な性衝動の形であることが分かる。ドラゴンもカーも、恐らくは破壊の力の大きさと人間が介入する余地のなさを追い求めた結果行き着いたものだ。むしろ何故セックスがくっついているのかの方が疑問だが……

 こうした性衝動の性質にもかかわらず、それが現実の人間に対する、しかも強姦などという陳腐な形で表出するとすれば、その原因は自分が何に興奮するのかを探った経験の乏しさによるのだ。探るためには、エロのサンプルが大量に要る。人間を性表現から遠ざけることは、性犯罪に荷担する結果となる。

 これは、エロ本が性欲の捌け口になるという意味ではない。現実の人間に向いていた性欲の流路を曲げて別の方向に流すのと、現実の人間の方に曲げられていた流路を元に戻してやるのでは、結果は同じでも全く異なる性欲観だ。

 もちろん現実の人間も性の対象となり得るが、それは死のカタルシスの一部を分有しているところに婚姻制度や承認欲求のような別のバフが働いているからで、性の対象としての純粋さで言えば大して高くはないのだ。


無限性(2020~)

 フェティシズムを、一方では大きなものに身を委ねる快楽と見、いま一方では不快が反転して快となったものと見ていたが、2020年頃になるとそれらの見方を統一する視座を探り始める。そうして出した結論が「無限」であり、2023年4月現在でもこの考えを維持している。

 ここで言う「無限」とは、「外部」と言い換えてもよいかもしれない。ポケモンに関する別の論考では、私はそれを「知覚のオーバーフロー」と呼んだ。つまり、自分の知覚が処理できる限界を何らかの意味で超えることを予感させる刺激が、性的興奮を引き起こすのではないかということだ。


 自動車の乗り心地の中に性感が含まれることは当然あり得るし、硬い材質と滑らかな曲線と過剰な速度という構成要素はそれ自体が“性的”のイデアに近い。分からないのは、人間がなぜ、「性的な目で見てしまうこと」にそれほど怯えるのかということだ。

 私は、性行為よりも遥かに抽象的なものをいくつか、人間の脳の中で性衝動と結びついている原始的なイメージとして指摘してきた。例えば、丸いこと。大きいこと。すべすべしていること。重いこと。それらを一言で包括する言葉、全ての性的興奮を共通して支配している概念は、「無限」ということになる。

時間的無限

 無限を想起させるものは、全て性的対象となり得る。逆に、あるものが性的対象となる時、人はそこに何らかの意味で無限の端緒を見出している。卑近な例として、前立腺の快楽は射精の快楽より先に発達するが、そのオーガズムは規則的な刺激が長時間続くことで起こると言われる。

 射精の快楽は、むしろ人間の性感の中では例外的とみるべきで、その本質は無限を堰き止めることによる衝撃(あるいは落差)にある。射精の直前までどのような想像をしていたかを丁寧に思い返してみれば、やはりそこには吸い込まれるような何らかの無限の片鱗があるはずだ。

 小学校の登り棒による性感の話はよく耳にするところだ。これも、登り棒が十分に長く、十分に滑らかであることに意味がある。同じ刺激が十分長い間続くことと、「十分長い間続くかもしれない」という心理的効果が、前立腺への刺激を明確な快楽へと引き上げる。

 例えばディルドにこれ見よがしの凹凸をつけたりすることに、果たしてどれほどの効果があるか。「意外な刺激」などというものは、深い性感の誘発にはほとんど関係がないはずだ。知れた刺激が永遠に続くのではないかという恐怖の方が、よほどオーガズムの後押しとなる。

意味空間上の無限

「性衝動」について…
お話します…
みんな…
「性衝動」って…
知ってるかな?
「性衝動」というのはね
たとえば
「かなしいずぼん」とか
あるいは…
「学校にまにあわない」
とか
あるいは…
「らんちう」
といったことを
「性衝動」というんだ。

循環の無限

(伊東ライフちゃんのエロ漫画を見ながら伊東ライフちゃんと性行為をするエロ漫画について)恐らくだが、三枚目がそのまま四枚目の中で漫画の一ページとして使われているところに本質があるのだろう。描かれたものと現実の光景を完全に同一視させ、入れ子構造を作る。伊東ライフちゃん自身がそのことを認識し、同一性を保っている。記号化されたキャラクターにならなければできないことだ。

『ゲーデル、エッシャー、バッハ』にあるところの「GOD=GOD Over Djinn」がここに垣間見えているわけだが、エロはこのような循環性・再帰性を最もよく示す分野だ。自分の琴線を探りながら性的な想像をするとき、人はある解像度で自分自身と交わっていると言える。全ての人間の全てのオナニーがそうだ。

 後は現実の伊東ライフ自身がこのような漫画を描いてくれれば、事は“完成”する、あるいは新たな始まりを迎えられるのだがな……

 話は伊東ライフから逸れるが、漫画『放浪息子』の最高のシーンは三巻の夢精の場面であると私は言う。性衝動の原型とはああいうものであり、人はああいうもので射精する。加齢と慣れによって忘れてしまうだけだ。


空間的無限

 カノンに変身したラティアスの、狂おしくどこか不気味な誘引力の源泉の一つは、その裏側にある姿が人型でなく、既にカワイイ記号として確立した哺乳小動物でもなく、流線型のつるつるした皮膚を持つ爬虫類めいた水棲生物であるところにある。このような生き物を触った時の感触は、性衝動の原形に近い。


この記事のポイントは、乳房が二つの丸だけで表現できる単純な形をしている、という記述だ。私はさらに踏み込んで、単純であることこそが性的さの条件なのだとさえ言いたい。 /最高にエッチな画像が遺伝的アルゴリズムで生み出される様子を見て反省する日々 - 本しゃぶり https://honeshabri.hatenablog.com/entry/docchi-ecchi

有限性の否定としての無限

 オナニーを「自瀆」と呼び始めた者が深く考えてその名をつけたとは思えないが、この呼び方は性衝動に関する一つの重要な示唆を含んでいる。性感を得ることは、確かに己の輪郭を揺るがすこと。そしてそのような自己破壊は、人格陶冶にとって必ずしも悪ではない。オナニーは小さなスクラップ&ビルドよ。


「捥げたところからなんか出てくる」という予感と、性衝動の手触りとは全く同じものだ(これはつまり、全く同じであるということです)。故に、一定割合の男児は小動物を殺している最中に勃起をする。残酷で邪悪な行為は、常に何らかの秩序や境界への侵犯であるために、必ず性的興奮を伴う。


 ウルトラマンや戦隊ヒーローの場合は、あのコスチュームも悪い(悪いとは言っていない)。人体に貼り付いて伸縮する生地は、皮膚のディテールを消して輪郭を強調した上で、中身にかかる圧力とそれを押し返す肉の力を強く意識させ、しかも中身が全く見えないというもどかしさを伴って性衝動を刺激する。


 ポケモンは、その来歴から見てもデザインから見ても、むしろシコれるようにできている。彼らは無意識の諸力であり、つまり性衝動の一部が具現化されたものなのであり、また初代の151匹の丸っこい輪郭とざらついた塗りはそのまま生き物の裸の皮膚の感触を想起させる。


 悪堕ちは人間の性衝動の元型に極めて近いところにあり(私は何にでもそう言っている気がするが)、「秩序の不連続な侵犯」という原理に支えられている。この原理はSMやメスガキにも通底しているものの、ロールプレイングの皮を被せず最も直球で核心を言い表したジャンル名が悪堕ちと言えるだろう。

対話1:溶融

 以下は知己のAal_denteEとの会話である。

操刷「私は、「無限を想起させること」を性衝動の核心だと考えている。広くのっぺりしたもの、長い時間続くもの。肌に曇りがないこと、乳房が大きいこと、逆に小さいこと、性的興奮のあるところには常にこれらの要素がある。乳首や陰茎などの突起は、その衝動を意識に上らせる取っ掛かりとなる。」

操刷「閉じ込められているという状況は時間的な無限と解釈できるし(放置プレイがシコれるのもこのため)、壁が丸いことや内外に物がないことは「突き当たるものがない」ということで、やはり永続の象徴だ。性衝動とは別の、処女信仰めいて純粋さを求める心も当然そこにはあるだろうが。」

操刷「なるほど、それはより直接に無限なるものだな(貞本エヴァの最終巻が手元にないのが悔やまれる)。西洋占星術においても性衝動は蠍座の司るところで、蠍座は他者と溶融すること一般を象徴する。してみれば、大きなものに溶けるイメージと興奮とが結びついたものが性衝動と言えるだろう。」

操刷「いわゆる女性型オーガズムでは、身体の境界が溶ける感覚がより強く表れるようだ。ここで貞本エヴァとはエヴァンゲリオンの漫画版を指すのだが(貞本義行の作であることによる)、君と私の想起したものはいずれも、自分の内面に深く潜るタイプの作品のようだな。」

操刷「ではあるが、一度何かを性的だと認識すれば、それに何らかの意味で似たものも連鎖的に性的リストに入れられていく。そのようにして社会的に構築された性癖も多くある。が、それらについてもやはり、どの部分において「無限」と繋がっているかを辿ることができるだろう。」


対話2:暴力性

 以下はフォロワーのcymri_gwynedd氏との会話である。

操刷「現在の私は、白色性や受容性も結局は暴力性に含まれると考えています。暴力には外界に向かう側面と欲望の主体自身に向かう側面とが常にあり、片方が発現する裏には必ずもう片方があります。「他者に暴力を振るうことで自分自身の立つ世界を毀損する」と以前言ったのはこのことを指しています。」

操刷「ここで、私は暴力を「許容限界を超えた入力をすること」と定義します。白色性と受容性は、暴力性が欲望の主体自身に向かう側面が表れているもので、それぞれ「視覚の空間方向に対する対自的暴力性」「触覚の空間方向に対する対自的暴力性」と今の私なら呼びます。」

操刷「「空間方向」に対置されるのは「時間方向」で、強い光を当てたり殴ったりするのが時間方向の暴力にあたります。主に傷や後遺症を伴う暴力が属し、いわば「取り返しのつかなさの興奮」です。対して空間方向の暴力性は、不可逆性の代わりに不可分性(境界がなくなること)を問題にします。」

操刷「つまり、性衝動は全て暴力性であり、暴力性とはオーバーフロー性(無限性)であり、その上で個々の表れは「対自‐対他」「不可逆性‐不可分性」「五感+社会機能のそれぞれ」の軸で分類すべき(さらに下位の分類軸もあり得る)、というのが現時点での私の整理です。」

操刷「これに従えば、円卓の鴉さんの挙げられた性癖は、エルフは社会機能に対する暴力性(他の軸は細かいシチュエーションによって決まる)、精液は不可逆方向の暴力性(他の軸は以下略)、などと、より細かく再分類できると思います。」

操刷「また、タイツの意味付けについては女性器のチラリズムに加えて、触覚の面積方向と圧感方向に対する対自的暴力性としてこのような解釈を持っています。」

 これが、性的さの背後にある無限性についての2023年4月現在における私の整理である。

まとめ

 まとめよう。人間に性的興奮をもたらすイメージや刺激は、全て「無限」という要素、言い換えれば知覚のオーバーフローという要素を持っている。生殖という切り口から説明できない嗜癖も、無限性という切り口から構造を分析することはできる。そして嗜癖の構造を分析することは、自分の欲望をより精細に理解して衝動的な加害を防いだり、その嗜癖を持つに至った事情を自覚して自分自身を癒したりするために役に立つ。


〈以上〉

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