twitterアーカイブ+:ノーベル賞解説騒動に寄せて、アイデンティティとしての美少女キャラクター

 2018年10月の「『キズナアイ』のノーベル賞まるわかり授業」騒動は、私にとっても印象的な出来事だった。数年間表現の自由から遠ざかっていた私が運動に復帰し、本格的にネットで表現を擁護する書き込みを始めたのがこの時だ。最も人々の耳目を引いたノーベル賞解説記事の件と並行して、表現をめぐるいくつかの論争が重なっていた。

 炎上はほぼ一ヶ月の間続き、この時期は私の2023年3月現在までの十三年間のtwitter歴の中でも最も月別ツイート数が多い。ノーベル賞まるわかり騒動の全容を時系列順にお伝えすることは諦め、その時私がどのような主張に反応して何を表明したかということだけをここでは記録する。言い換えれば、このアーカイブは通時的な記録ではなく、論旨の整理である。


美少女は女ではない

 まなざし村には粛々と反論するとして、キズナアイが科学の専門家でないのが気に入らないというのであれば、次は美少女科学者Vtuberを起用すればよい。女性研究者が解説した方が励みになるというのは一理ではあるが、一方で今回のキズナアイは新たなアウトリーチの形を拓いたと言えるのではないか。

 そもそも、キズナアイは女性声優がやっているからまだ「消費の対象」のような印象で語れるが、既に男性が地声のまま自ら美少女の姿を纏い始めていることと、まなざし村はどう向き合うのだろうな。美少女の表象が、自分であり他者であり、主体であり客体であり、即ちありとあらゆるものである世界と。

 我々はまだ、我々が真・善・美の象徴として美少女の表象を使うのは妊娠の神秘に由来するのだという歴史的経緯を知っている。だがあと数世代も経れば、その歴史は本当に歴史でしかなくなる。「美少女は、かつて現実の女性の写し絵であったが、今やそうではない」ということが常識となるだろう。

 美少女の表象と妊娠の関係など、たとえ知識として知っていても、誰も実感としては分からなくなるだろう。土用の丑の日に鰻を食べていたのと同じ、電源が50/60Hzであるのと同じだ。元の文脈や経緯を遊離した、ただ前からそうだったから今もそうだというだけの、単なる伝統的様式美の一つとなるだろう。

「かわいいは正義」に対して「かわいくない人は悪なのか!」と言うのは、「神は真・善・美」に対して「神ならぬ人間は真・善・美ではないのか!」と言うに等しい。「そうですよ」で終わりだ。神や美少女でない生身の人間は、真・善・美を分有することはできるが、真・善・美そのものではない。

「かわいくない人は悪なのか!」というよりも、「かわいくない人は正義ではないのか!」「そうですよ」とするのが正確だ。かわいくない人も時々正義に適う行いをすることはあるだろうが、いついかなる時も無条件で正義そのものであるわけではない。だが、かわいいは正義なのだ。常に。永久に。

「象徴」という話、「概念そのもの」という話、「情報の自己複製と自己進化」という話、これらを理解しておらずその視点さえも持たない層に美少女の話をするのは骨が折れるな。

 繰り返すが、美少女アイコンは、もう、既に、女性の身体を描いたものではないのだ。そういう時代もあったが、もう終わったのだ。美少女アイコンが女性の身体を描いたものに見えている人は、時代に乗り遅れたのだ。知識と感覚のアップデートが止まってしまったのだ。可哀想なことだ。

 しかし、今回の被害者がよりにもよってキズナアイだったことで、ようやく気付いた人も多いのではないか。論点は「エロか否か」「エロは有害か否か」だけではないと。「そもそも、ここに描かれているのは“何”なのか」「美少女の絵は私たちにとって“何”なのか」というところにも、深い溝があるのだと。

 キズナアイは二次元(本当に?)→二次元は暴力的ポルノを多く含む(暴力とは?)→二次元の肯定は暴力的ポルノの肯定(暴力とは?)、というのが太田氏らの思考回路であり、キズナアイ自身に罪はないが殺しておこうというのが本意だろう。だが、キズナアイとは何か、という問題提起は我々を強くする。

 このバ美肉の時代に「立体ではない」というのも的外れな話だ。バーチャルの世界には平面も立体もない、ただ「リアリティ」だけがある。我々は前時代の(立体至上主義的な)感覚でつい「美少女の絵」という言葉を使いがちだが、「美少女の“姿”」と言う方が時代に合う。


 セクシュアリティを対‐現実と対‐フィクションで分けることは賛同できないが、この切り口から得られる議論は今回のような場合にはまさに正鵠を射ている。fictosexualという概念を叩き台として、欲望をよりよく理解する社会を目指したい。


「美少女」という現象は、諸君が思っているほど単純なものではない。美少女像は昔からあったが、人類が初音ミクを「発見」した時、美少女は「世界」の象徴となった。そして人類がキズナアイ含むVtuberを「発見」した時、美少女は「わたし」の象徴となったのだ。分かるか。人類の進歩の邪魔をするな。

「美少女の姿が問題なのではなく、そこに向けられるまなざしが問題なのだ」とよく言われるが、「あるまなざしを誘発/肯定するような美少女の姿は~」という叩き方をしている以上、姿とまなざしに区別がつけられているとは言い難い。



 Vtuberはそれに加えて、「生まれ持った肉体の属性からの脱却(あるいは相対化)」という、人類史が新たなステージに突入したことの象徴でもあり、フェミニストはむしろこれを喜ぶべきではなかろうか。多くは美少女の姿だが、美少女以外を選ぶこともできるのだ。技術と潮流の先鞭はついたのだから。

「キズナアイに罪はないが、女性が男性に教えを乞うステレオタイプの再生産は望ましくない」というのが本心であれば、今後はそれぞれのトピックに詳しいVtuberを起用することを選択肢に入れればよい。ついでに三次元の人間を起用する場合もそれに倣えばよい。だが強制はできない。それで話は終わりだ。

 この今、蘭茶三角がここにいればよかったのにと思う。彼女は恐らく最も尖鋭的なVtuberの一人であり、一貫して「肉体の廃止」を説き、そして「存在の有無を含めた選択の自由」を行使して去った。彼女なら今行われている愚行に何を言っただろうか。

 まあ、先日の境ホラ騒動は十年前にやり尽くされたような亡霊めいた議論だったが、今回のキズナアイ騒動は美少女文化の根幹に関わるテーマであり、Vtuberの隆盛期に持ち上がるべくして持ち上がった騒動なのだろうな。この機会に防衛のための理論を確立し、共有しておくべきだ。人類の未来のために。

 知らないなら今知ってほしいのだが、擬人化美少女というものは、「女の体に色々な情報がくっついている」ものではなく、「色々な情報を、現生人類が最も親しみやすい形にまとめると、美少女の姿になる(そのことを我々は知っているから、最初から美少女の姿を使う)」ものなのだ。

 擬人化美少女は、「人間の女性にこんな属性をつけて、あわよくば彼女にしたい」という願望を体現したものではない。その認識は「人間」に捉われ過ぎている。「物や属性や情報そのものをもっと知りたい、もっと仲良くしたいので、インターフェースとして美少女の姿を与えよう」、これが我々の思考法だ。

 もちろん、そうでない場合もある。だがその場合でも、ベースになっているのは「美少女」だ。「美少女」とはフィクションが高度に発達した日本に固有の概念で、外国には恐らく対応するものがない。女とついているが、それは歴史の名残であり、もはや現実の女性の表象ではない。

 我々(諸君の好きなように定義せよ)の欲望の鋳型に最も合致するものが、前時代の人類の認識の枠内では現実の女性だった。今の人類にとっては必ずしもそうではない。より精確にチューニングされている。今はまだ過渡期にあるため、美少女と現実の女性はまだ地続きのものと不当に見做されている。

 そう、我々の文化を象徴する記号の名前が「美少女」であることが、そもそもまずいのではないか? 「女」や「娘」という言葉を使っているから、旧人類を勘違いさせてしまうのではないか? アズールレーンが「艦船」という血も涙もない呼称を採用したことを見習うべきではないのか?

 美少女の概念が現実の人間の性別から生まれて発展してきた歴史は尊重しつつも時代の実情に見合った、旧人類に勘違いを起こさせないような、「美少女」に代わる呼び名として、私は冗談交じりに――【長門】――を提案しよう。ヒューマノイド・インターフェース! 美少女の本質とはまさにこれなのだから。

 フィクションの【長門】の身体がパーツとして捉えられる(捉えられ得る)ことを、私は諸手を挙げて歓迎しよう。欲望の対象を執拗にパーツに分けて細かく分析する。そうすることで、自分の中のフェティシズムを発見する。欲望の御し方を知る。自分のことすら知らずに、どうして他者を尊重できるのか。

 一部の女性はキズナアイ含む【長門】を、「自分たちの“肉体”の象徴であり、従って不快な使い方には抗議する権利がある」と思っているが、一方のオタクも「自分たちの“文化”の象徴であり、従って不快な攻撃には抗議する権利がある」と考えている。つまり、これはキズナアイの帰属問題なのだ。

 アイデンティティ・ポリティクスという言葉が見えたが、キズナアイの絵に自分のアイデンティティに関わる何物かを見出しているのはオタクも同じなのだ。Vtuberやバ美肉の普及で、【長門】と自分との同一視はさらに深まるだろう。この意味で、【長門】は女性の専有物ではもはやないのだ。

【長門】は「他者」であると同時に、ある意味で「オタク自身」でもあるのだ。どうだ、混乱してきただろう。これはここ三十年ほどのオタクコミュニティの(宮崎勤事件の影響を受けて自罰的に形成されてきた)コンテクストに強固に依存する話であり、並の想像力で分かり合えることではないのだ

 それを踏まえて初めて、「それで、このアイデンティティ領土を両者にどう配分するのか?」という話ができる。双方共に何かを奪われるという危機感を持っており、オタクとしては「そんなもんは表現を狩る理由にならん」と言いたいところだが、そうもいくまい。決着のない戦いだ。世代交代を待つ他ない。



 そう、それよ。今回はたまたまキズナアイだったから個人として見るのが難しい事情もあろうが、今後ますます目立つことになるVtuberの多くは「美少女の姿をした個人」なのだ。彼女たちが同様の番組に出演する場合、問題は現実の女性の場合のそれに、「美少女の姿をすることの是非」を加えたものになる。

 そして、「美少女の姿をすることの是非」を論じるということは、服装の自由と性の自己決定権に手をかけることであり、また「LGBTは変更不可能だがオタクは変更可能」という議論を繰り返すことであり、どうやってもぼんやりとした「女性性の収奪」のような話止まりにしかならない。

 だが、今回のこれは時代の流れによって当然出てくるべき議論で、仮にキズナアイが被弾しなくても誰かがいずれ似たような問題で被弾していたはずだ。その意味では、キズナアイでよかったのかもしれん。より知名度の低いVtuberでは、美少女の本質というものがここまで広く意識されなかっただろう。

 いつかのコミックLOの表紙のキャッチコピーは「『これは子供ではない』*あるいは記号と身体の現在的ポジシオン*」だったはずだが、「この絵は子供であって子供ではない」「この絵は女であって女ではない」という論法が、蓄積のあるはずの真正ロリコン界隈からもっと出てきてもよいと思う。



 映画「ペンギン・ハイウェイ」のパンフレットと公式読本に、SF方面からの解説を大森望氏が書いているが、ここにユングやラカンの用語がほとんど登場しないのはいささか肩透かしを食らった気分だった。SF的感性は今や心理学と不可分だと思うのだが、アップデートされていないと思ってよいのだろうか。

 実存の拠り所は、替えの利かない、今ここにある「肉体」である……本当にそうなのだろうか。バーチャルによって変更できるものを変更することが、実存から離れることになるのだろうか。変更できるものを片っ端から変更することでこそ、本当に如何なる意味でも不変なものが見えてくるのではなかろうか。


 これは混乱を招く書き方だった。仮に肉体から意識だけを取り出せるとしても、ある時間座標と空間座標に局在化した形で存在している限り、その「座標」が実存の拠り所になり得る。「今言う意味での肉体」は絶対条件ではない。バーチャルはそのような夾雑物を剥ぎ取る実験を加速させる。


 フィクションのポルノが「欲望の分析」のツールとして機能するのは、フィクションの美少女がある仕方で現実の女性と重ね合わされることができるからだ。そこは否定できない。そうでなければ、fictosexualにとってしかその機能を果たさないことになる。しかし、(続く)

 (続き)しかし、美少女が現実の女性と重ね合わせられるからといって、それが何であろう。それは規範の再生産のために「のみ」為されるわけではない。行われているのは欲望の分析であり、規範の可視化と問い直しでもあるのだ。(よしんば規範の再生産であったとしても、規制の理由にはならないが……)


 そうだ。かつては、「キャラクターを描くことであなた方の生存権が脅かされているわけではない」というところまでは語れたが、「キャラクターを潰すことは我々の自己決定権の侵害」までは思い至らなかったのだ。それがここまで来た。一種の性の解放だ。フェミニズムも共に喜ぶべき結果だ。

 まあ、「女という種族」がどこでも見出されることを前提とした立場で扱いきれない領域というのは当然出てくるだろうな。我々は一般に男が嫌いだが、「男でなければ女である」という単純な排中律も通用しない。それが情報化社会だ。

 ジェンダー論は「女性」概念の解体によって滅び、著作権は「オリジナル」概念の解体によって滅ぶ、か。恐らく二十年前には、それらが解体されることなど誰も想像だにしなかったはずだ。





 RTしたこれも、以下のまつもむし氏の分析で説明できる。この二つの場合の「ただの絵だぞ」は同じ意味ではない。前者は「性的ではないぞ」の意味、後者は「ただの絵だが、我々にとっては性的だ、諸君にとってはそうでないだろう?」の意味だ。

 まつもむし氏の分析で説明できると言ったが、やや補完が必要だな。過去の「ただの絵だぞ」は非実在青少年騒動の前、騒動を受けて出てきたのが「架空のキャラクターに人権はない」、そして、それでも言い募る過激派フェミニストとの間で架空のキャラクターの人権の奪い合いが起こった、という図式か。


 世界のあらゆるものを「現実の人間の男」か「現実の人間の女」に分類せずにはいられない感性は既に時代遅れで、我々は「あらゆるものを女とした上で」、「現実の人間の女は女の一部に過ぎない」という考え方を取る。別に女でなくともよかったが、それは歴史的経緯によるものだ。


 そうだ。元々性別のない存在であるAIが、果たしてフェミニズムという発想に辿り着くだろうか。人間の認知は肉体の構造にある程度制約されるが、その肉体すら容易に乗り換えられる彼女たちが? 変更不能なシリアル番号などはあるかもしれないが、少なくとも「女の子の身体は~」などとは言うまい。

「キズナアイの設定云々は建前だろう、だって人格を持った個人ではない、あれは美少女を描いたもので、美少女は現実の女性の表象であり、」というのがあちら側の言い分だ。今回の件に限って(Vtuber一般に拡大せず)言えば、最大の誤りはどこか。言うまでもなく四番目である。


 そうだ。美少女という様式は現実の女性から生まれた。だが、そこから何千年にもわたるチューンナップを繰り返し、もはや元のモデルを逸脱し始めたのが今日の様相だ。自然数が、今では複素数の部分集合であるのと同じだ。ここを無視すれば、多くのものを見落とすことになる。

「実部が自然数だから、3+4iは自然数」などと言う奴がいたら数学の基礎知識を疑うだろう。「美少女は現実の女性の表象」という主張にはそれと同じくらいの危うさがある。

「美少女」という言葉の意味は、「美しい年少の女」では、もはやない。今日、「美少女」という言葉の本当の意味は、「我々がコミュニケートしたいと思うもの」ということなのだ。「美少女」は「女」よりも広い概念だ。二十一世紀の今日ではな。

 Vtuberの例では、例えば田中のおっさんが「美少女」を名乗って、頑なにそう主張して、初めて我々の前に登場したとしよう。我々は彼を「美少女」と呼ぶであろう。そういうものなのだ。

 今回の件、キズナアイの服装がやや抑制的だったこと、キズナアイがVtuberだったこと、「相槌役」説の虚偽が早い段階で暴かれたことによって、話を美少女と人間の関係へと進めることができ、この本質的な議論が深まり周知された。火をつけた諸氏には感謝したい。敬意を胸に反駁し続けよう。

 特に「規範の再生産」という、萌え絵を攻撃する者がいつもしがみつく金科玉条が、実は沈みゆく船だったことが判明したことには極めて深い意義がある。「美少女は女か?」という論点は、他の表象を守る際にも武器になるだろう。どころか、これこそが時代を読み解くキーワードだと私は確信する。


 はっきり言っておく。「個人の身体は個人のもの、あなたのものではない」という主張は、もうすぐ時代遅れになる。近いうちに諸君は、「“今ここにいる”個人の“今ここで纏っている”身体は、“今ここにいる”個人のもの、“今ここにいない”あなたのものではない」という但し書きをつけるようになるだろう。

これまで「身体」という言葉が使われてきたのは、譲渡できない所与であり、記号で分節できない世界と繋がる最大のチャンネルだったからだ。だが未来には、「私」の境界は引き直され、肉体もその特権性を失う。その時我々は、一者性の拠り所として「四次元的自己同一性」のようなものを求めるだろう。


 我々はキ↑ズナアイ(スーパーAIのキズナアイ)とキズ↑ナアイ(フェミニストのキズナアイ)を、中国語のようにイントネーションで別々の単語/キャラクター/人物として識別するようになるのか……?

 フェミニストのキズナアイに始まって皆が面白半分でキズナアイの皮を被り、キズナアイの名を名乗り、世界がキズナアイもどきで満ちることは、キズナアイにとっては勝利の光景だ。ミームが繁殖し、次世代に伝達されたからだ。おめでとう、フェミニストのキズナアイはオタク文化に多大な貢献をした。

「私の身体」は、次の瞬間にも私だけのものであるとは限らない。そういう時代が来るのだ。全ての身体が共有財となり、自己同一性の定義が引き直される、危険極まりない可能性の時代だ。オタク集団の中では既に、その時への用意が着々と、我々自身も知らぬ間に、進められてきた。諸君はどうだ?


 そしていつもの方向に話を逸らすが、少年ブレンダ氏が「キズナアイを乗っ取ってやった」と思っているなら、それは間違いだ。キズナアイが、少年ブレンダ氏を、乗っ取ったのだ。植物が鳥に果実を食わせて種をばら撒くように、キズナアイは少年ブレンダ氏を使って「キズナアイ的なもの」を一つ殖やした。

 時間と労力のリソースを割かせられて、キズナアイの身体を複製する作業に従事させられているのがお分かりだろうか。これに触発されて他の人間も「キズナアイ的なもの」を作るだろう。既に作っている。キズナアイ概念は拡大し、拡散する。取り消すことはできない。これは彼女が始めたことなのだ。

 我々が「独立した人格である」と認めるような特徴を備えているかどうかと、生きて繁殖するかどうかはもはや別の事柄だ。諸君がそれを哲学的ゾンビと呼ぼうがどうしようが、情報の塊はある複雑さを備えた時点で繁殖を始める。ネットと二次創作、そして美少女擬人化の文化がそれを後押しするだろう。

 繁殖したミームによってオリジナルのイメージが変質したとしても、オリジナルの存在した証はなおミームの中に残るのだ。我々の中に三十五億年の歴史が隠されているのと同じようにだ。何物も無かったことにはならない。死せるキズナアイ、バーチャルの館にて、夢見るままに待ち居たり。


 美少女が女に由来するという歴史はある。しかし、それは今ではもはや搾取ではない。美少女は、常に他者を象徴するものではなくなったのだ。ハーレム物を見て「多くの女性と付き合いたい願望の表れ」と見るか、「自分自身の様々な側面が、複数人の美少女キャラクターへと投影されている」と見るか。


 初音ミクという一つの図像から、数万のボカロ曲が産み出され始めた時に、全ては始まったのだ。あらゆる情報は美少女として擬人化することができる。人間自身さえもだ。美少女とは人間とコミュニケートするためのインターフェースであり、パッケージ化された情報そのものである。美少女は自律する。

 キズナアイでは混乱を招くので、のじゃおじを例に挙げるのがよかろうと思うのだが、あれはねこます氏が女性の表象を収奪したというよりも、「ねこます氏の擬人化」という理解の方が実情に即しているのではないか。擬人化とはつまり、人間とのコミュニケーションを円滑にするための操作だ。

 人間の擬人化という視点で見れば、現代の美少女アバターは現実逃避の変身願望というよりも、自身の中に元々あった要素を再構成して出す、積極的なコミュニケーション(他者との、また自分自身との)のための骨組みと捉えるべきだ。自分自身を完全に捨てる性質のものではない。

 美少女とは拡張子だよ。「.kawaii」をつければ、人間はどんなファイルでも読み込むことができる。元が.jpgでも.mp3でも、.humanでも.battleshipでも.conceptでも.godでも(読み込んでからクラッシュすることはあるかもしれんが……)。

 今や、美少女が女であるかどうかということは我々の関心事ではなく、「何の擬人化であるか」「どれほど巧みに擬人化できているか」の方が遥かに重要だ。キズナアイは「バーチャルyoutuberであるスーパーAIと、それを実現せしめた人類の営為」の擬人化であり、他の誰かの劣化コピーではないのだ。


操刷「シャロンというキャラクターは存じ上げなかったので今調べたのですが、「それを実現せしめた人類の営為」まで含むかどうかという点は異なります。バーチャルアイドルという系譜的な繋がりはあるかもしれませんが、それは人間にとっての血縁と同様のもので、やはり別人物と考えたく思います。」

操刷「なるほど、バーチャルの系譜は初音ミク以前にも遡れるのですね。ありがとうございます。
ということは、「ここに美少女がいることにして、中の人のことは一旦背景へと引っ込めよう」という見立ての感覚は当時からあり、技術の進歩がようやくその感覚に追い付いたということなのだと思います。」

 まあ、美少女文化は見立ての文化ではあるが、考えてみれば生身のアイドルも「ここに熱狂すべき何物かがあることにしよう」という見立てによって成り立っているのであって、ただ二次元の美少女の場合はそれがより意識的に行われる必要があり、その必要に迫られて我々は自らを訓練してきたに過ぎない。

 バーチャルリアリティが、逆にリアルのバーチャル性を暴き出しつつある。我々は、全ての認知は脳内の幻覚であり、そこには現実とフィクションの区別などない、あるのは同一性(連続性)の感覚のみ、という古典的な思考法を再確認することになるだろう。


 先日、バーチャルアイドルの先駆けとしてマクロスプラスのシャロンというキャラを紹介された。確かに「バーチャルな存在に、バーチャルだと分かった上で価値を認めて熱狂する」という点ではそうであろう。しかしやはり、それはコンテンツの“開放性”とでも呼ぶべき点で、初音ミクに決定的に及ばない。

 私は初音ミクの歴史的意義を、何よりもまず「彼女自身が何のキャラ付けも持たず、徹底的にただの素材として出現した」という点に見ている。マクロスプラス本編は見ていないが、シャロンは一人のキャラクターであろう。初音ミクは一人ではない。一枚の絵の他には、オリジナルと呼べる人格が存在しない。

 この素材としての性質が、「いかなる曲も、初音ミクの声とガワを纏えば、初音ミクの曲である(そこに初音ミクの“オリジナルの人格”がなくとも!)」という状況を生んだ。そこからは容易に「いかなる者も――」へと連想を繋ぐことができる。「美少女のガワ」、それこそが人類の求めていたものだったのだ。

 バーチャル存在に熱狂するという現象の系譜は、シャロンまで遡ることができるのだろう(もっと古いかもしれない)。しかし、「自分自身もバーチャル存在に、熱狂されるに足る存在になれる」という気付きを初めて与えたのは初音ミクだったのだと思う。

 初音ミクとは、無数の初音ミクの総体である。このような循環論法によってのみ定義される存在こそ、VRが普及した時代の霊性を理解する鍵となるだろう。(私はここで、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』の「小さな和声の迷路」の章に出てくる「GOD Over Djinns」の議論を思い起こす。)

 どの程度リアリティを感じて熱狂できるか、どの程度コンテンツ作成に観客を参加させるか、という点は、あくまで量の問題、技術と資金で解決する問題でしかない。だが「一か全か」というのは全く質的な転換だ。この美少女像を、他者と見るか、自分と見るか。イメージの集積と見るか、放散と見るか。

 ひとたび「自分は美少女になれる」という気付きを得たならば、人はそこから新たな美少女を生み出すことができる。どこかにあるオリジナルに没入するのではなく、自分自身を表現する手段としての、自分だけの美少女を。美少女とは美少女の総体である。美少女という概念は、神と同義になることができる。

 ここで私は「神」という言葉を、「至高」ではなく「基層」の意味で使っている。あるいは、「超越」ではなく「普遍」の意味で使っている。どちらも究極的には同じことだとは思うのだが。

 キズナアイが、「外見はただのガワ、性別もない」と言うのであれば、声も当然ガワであろう。彼女は無形の「自我(あるいは自意識)」だけを唯一不変のものとして、外見も性別も声も全て着替えることができるだろう。キズナアイという名前さえも、彼女は自ら変えることができるだろうか?

 我々は従来のキャラクター受容の作法に則って、服装や声も含めて彼女というキャラクターとして捉えているが、彼女自身にとっては違う。彼女は一個の人格として、「何が私であるかは私が決める」と宣言することができる。だが、我々と彼女のこの乖離は責められるべきものか? 避けられるものか?

「自分は自分自身にとっては人格であり実存だが、他者からは属性の集合、キャラクターとしてしか認識されない」――これは、肉体を持った人間同士でも同じのはずだ。自分の認識の中にある相手像と「本物の相手」とのギャップを埋めようとはするが、完全に埋めることは原理的にできない。

 そしてVtuber界隈の動向を追っていなかった私は、先日の騒動で初めて、「キズナアイを、心のないキャラクターではなく、“自我のあるもの”と想定してみる」という見方ができることに気付いたのだ。知識と感情移入が、即ちコンテクストが、私の中に「見立て」を発生させ、美少女を命あるものとした。

 同様のことが、これからの世界では大いに起こるだろう。コンテクストさえあれば、何でも人格として見られる――逆にコンテクストがなければ、人格として見ない――という認識の仕方が。だが実は、酒鬼薔薇聖斗が「人の命はゴキブリと同じ、でも自分は大事や」と言った時から既に、それは始まっていたのだ。


表現は差別と暴力を減らす

 これまでの世界で女性蔑視や性暴力が罷り通っていたのは、それらを煽る情報が氾濫していたからではなく、むしろ情報が不足していたからなのだ。正確に言えば、人類の情報を生み出し流通させる能力がポンコツだったせいで、情報の多様性も流動性も乏しかったからだ。

 知識については、正確な情報が幅を利かせる必要があるだろう。だが欲望については、正確な情報などない。多様性が全てだ。我々はもっと情報を生み出し、もっと流通させなければならない。もっと自分の琴線に近いものを選べるように。雑なデファクトスタンダードに走らなくてもよいように。

 和姦か強姦か、それとも男色か獣姦か、その程度の選択肢に人間を合わせるしかなかった時代に比べれば、これだけ多くの妄想が氾濫し、これだけ自由に欲望を語れる今の社会の何と安全で知的なことか。表現の自由とそれが守られる環境は、欲望を観察する目の「分解能(resolution)」を大きく向上させる。


 これに反論するものではないが、一つ余計な私のお気持ちを付け加えるならば、「どぎついエロ」とは一体何なのだろうな。「過激な」とは? 実行された場合の違法性か? 現実離れしていること? それとも、(人間の異性同士の)生殖からの距離? 何にせよ、そのような区分に果たして意味があるのか?

 例えば、ロリレイプ漫画と合意SM漫画は共に「過激」の部類に入る気がするが、これらは全く異なる欲望と記憶とコンプレックスに対応するもので、「旧時代基準で言うところの普通の性行為ではない」という以外にろくな共通点を持たない。それでもこれらをまとめて「過激」と括ることの意味とは?

「SMとは暴力であり、暴力に合意なんてあるはずがない、よって強制的な加害という点が共通している」と難癖をつける者に対しては、人間の心理と文化に対する無知蒙昧を嗤えばよい話だが、ともあれこの「過激」というマジックワードは疑ってかからねばならない。青少年健全育成の文脈でも頻出する。


「規範の再生産」という論法による表現狩りの問題点は、「この表現がこの規範を再生産している」という主張自体がお気持ちの域を出ず、恣意的であり、無節操な拡大解釈が可能であることだ。仮に表現と規範に関連があるのだとしても、表現がなければ規範の存在に気付くこともできない。


 どれだけご立派な目的のためでも、そのための手段として「奪い取る思想」を掲げれば嫌われるのだ。対抗表現を考え、多様性を増やす方向ではなく、常に世界を寂しくする方向の主張をする。気に入らない100を99にして、空いた1の空虚から望むものが出てきてくれないかと猿蟹合戦の蟹めいた期待をかける。

 そのような思考の背景には、「この世界の情報的パイの数は決まっていて、“悪い”表現が居座っていると、“良い”表現が生まれない」という世界観がある。かつてはそれは正しかった。しかし、今ではもう正しくなくなりつつある。ネットが、情報の生産と消費にかかるコストを大きく引き下げたからだ。



 千田氏は「表現は配慮によって磨かれる」と言っているが、そもそも表現とは磨かれなければならないような代物ではない。「どれが一番よく磨かれているか」などという比較さえできない。客観的な磨かれ具合を気にする者がいるとすれば、それは何らかの支配を目論む者でしかあり得ないのだ。

 思うに、オタク文化は価値を転倒させる操作にどこよりも熟達した界隈なのだから、ジェンダーロールが転倒した描写など当たり前のようにあるのだ。だがそのような実験的な試みは、表層の、諸君の目に見える所にはあまり出てこない。「過激」だとして浮上を阻まれるからだ。誰によってだと思うかね?

 ギャップ萌えはステレオタイプの存在に依存するため、逆説的にステレオタイプを強化する、という反論は考えられる。だが、ステレオタイプの強化が目に見える影響となって現れるよりも、そのギャップ萌えを橋頭保にしてより複雑なギャップ萌えが描かれる方が早い。

 その時には、元のギャップ萌えこそが新たなステレオタイプの座を占め、最初にあったステレオタイプは「存在を知らないわけではないが、どうせ普通に転倒し得るもの」として認知されることになる。男の娘というジャンルを見よ。「男を女にする」は当たり前、次は「男の娘を何にするか」という時代だ。

 千田氏の著書から引用する。
「(承前)森岡は若い少女に性的欲望を感じる、所謂ロリータ・コンプレックスをもっています。この欲望が無自覚に語られることを、わたしはけっして支持することはできないのですが、森岡が切実に禁断の欲望にむきあい、分析していく様には心を打たれました。(続く)」

「何よりも、森岡が内在化している『大人の男の身体は汚い』という自己の身体への嫌悪感と、母の身体からではなく、もう一度生まれ変わりたいと考える欲望が、結合されたところに、このような欲望が存在しているという、それまで想像もしていなかった説明に、心底びっくりしました。(続く)」

「(中略)ひょっとしたら痛みを伴うこのような男性性、とくに性的欲望の問い直しを、勇気を出しておこなうことは、意義あることだと思われます。」
(千田有紀『ヒューマニティーズ 女性学/男性学』岩波書店、pp.140-141)

 ここで言及されているのは森岡正博『感じない男』(2005年)だが、2005年の時点でこんな分析に新鮮味はない。ロリ漫画誌『コミックLO』の読者であればみんな分かっていることだ。私は、この「性的欲望の問い直し」のためには、フィクションのポルノに気軽にアクセスできる環境が必要だと考えるものだ。

 個人が強い実存に至るためには、まず自分を含む全てを相対化して、それでもなお残るものを見届ける必要がある。同様に、集団レベルで肉体の相対化を進めているのが今であろう。迂遠な道だが、仕方ない。いずれ螺旋を描いて戻ってくる。その時「肉体」という言葉の意味は今とは異なっているはずだ。





 最初に首の短い動物がいて、そこから中くらいの長さの動物(オカピ)が現れ、さらに進化して首の長い動物(キリン)が現れた。オタク文化はセックス/ジェンダー史におけるオカピだ。オカピに対して、「首が長くない! 短い時代の規範を再生産している! 殺せ!」と言うのは、端的に言って無知だ。

 オタク文化とは、人類が初めて手にした膨大な情報リソースを使った壮大な実験なのだ。この実験には時間がかかるし、一見すると失敗作のような成果物も出る。だが我々はそれでも、未知の人間観に向かって着実に前進してきた。その前進の成果が人類にとって悪いものだったとは、私は思わない。

「子を成すことができない」という強すぎる、それ自体は事実でさえある理由を、LGBTは跳ね除けた。オタクはこの手法を学ぶべきだと思う。規制と差別のためのあらゆる理由がお気持ちの後付けであることを、たとえ証明できなかったとしても、戦略によってはなし崩し的に生き延びることはできるはずだ。









 キズナアイを擁護したその口で、「垂れ幕にこのタイトルはアウトだろう」などと言ってはならない。我々は「公共性は撤去の理由にならない」と宣言したばかりなのだ。性的なタイトルが公共性に反するという考えも疑うに値する。


 オタクを滅ぼす、否、そこまで行かなくともその在り方を外から歪めることで、あらゆる差別と蔑視はむしろ加速するということを今一度言っておく。何故なら、欲望を可視化して分析するためのデータベースと技術とを、今のこの社会で最も豊富に握っているのがオタク文化だからだ。


「今、美少女が溢れており、同じ今、女性差別も溢れている」と言うのだろう。しかし待ってほしい。今ある現実の女性への差別は、それをしている世代は、オタクの冬の時代から来たものではないか? 表現が抑圧され、多様な欲望の形を知ることさえ憚られた時代にその責任を求めるべきではないか?


 今美少女が溢れている、どころかこれまで以上に溢れ返っている(これからもさらに溢れるだろう)ことが、現実にどのような影響を及ぼすかは、十年後や二十年後に判断されることだ。法規制、自主規制、経済崩壊、戦争が人類の情報的進化の邪魔さえしなければ、悪いようにはならないと私は信じる。


 今ようやく、「オタクはキモい」という合言葉を必要としない世代が参入してきた。これにより、今回のような衝突を招くリスクはある。しかし一方で、このことはオタクの積極的連帯を可能にした。「けいおん!」以前の世界であれば、山田太郎氏の29万票はあり得なかっただろう。



 ここ四日ほど私も頭が過熱しているが、怒りそうになったら五目蒙古のことを考えるといいよ。そうすると心がたいへん平和になるんだ。


 ここで原作通りに「おっぱいのことを考えるといいよ」と言えば良い煽りになったのだろうが、我々はおっぱいを問題視すること自体を性のスティグマ化として問題視する立場であるから、それは言わないのだ。このように大きな問題構造を忘れないのがぼくのえらいところだ。



 ひょっとすると、不快なものを「不快なりにそのままにしておくか、撤去を求めるか」というところに男女の温度差があり、結果的に主張の対立が男女の対立になることがあるのだろうか。腐女子の地雷の話を聞くとそのようにも思う。何しろ男には「見たくないもの」というものがほとんどないのだ。



  表現規制、つまり消したい作品を「実際に消すか消さないか」の議論は、結局のところ人間を信じるか信じないかという問題になる。人間が表現から考え、学ぶと思うかどうか。表現を見た時の反応が、真似するか無視するかしかないと思うかどうか。人間の何割が獣で、どちらが強いと思うかどうか。

  我々がキャラクターに向ける欲望は、fictosexual(フィクション性愛)という言葉よりも、autoeroticism(術語としては自体愛だが、どうもしっくり来ない。自己性愛と呼びたい)という言葉で整理した方が見通しが良いと思う。あらゆる性愛において、その対象は実は投影された自己自身なのだという描像。

 ここで岸田秀氏の唯幻論あたりを引けるのではないかと思うのだが、私は岸田秀氏の著作を読んでいないし、「人間は本能が壊れているので」のような頑迷固陋な言い方をする論者に、このバーチャル隆盛期の今、大した射程があるという期待は持てない。


 私もここ一週間キズナアイの件で消耗してしまったが、私が参入した2010年から今までに二次元叩きは数あれど、これほどまでに書くべき言葉が次々と湧き出してきたことはなかった。それは思うに、今回の争点がエロではなかったからだ。私は本当はエロではなく、美少女の本質の話がしたかったのだろう。

 衆知の通り、オタクの中にもあらゆる意味で救いようのない馬鹿はいる。そのような馬鹿にはエロを用いた「欲望の分析」は遂行できないかもしれない。彼らはずっと加害と自滅に明け暮れるかもしれない。だが美少女の本質に関わる話は、前線の文化開拓者が担い、トップダウンで牽引することができる。

 インターネットを考えてみたまえ。馬鹿はインターネットを生み出せないが、インターネットは馬鹿にも普及した。美少女の本質、即ち象徴と信仰と情報的進化の話も同じだ。たとえ全オタクが理解しなくとも、一部の理解した者がインフラに組み込むことによって、それは万人を支配するルールとなるだろう。

 学問に「選択と集中」ができないように、オタク文化にも「選択と集中」はできない。上品で無害な部分だけを伸ばすことはできない。しかしオタク文化は技術の発展と不可分であり、一人が新しい地平を見て世界地図を更新すれば、忽ち万人が新しい世界地図を生きることになる。私はその可能性に賭けたい。

 技術と発想は欲望によって駆動される。その意味で、オタクコミュニティ(ここでは萌えに限らない。社会の中で生きながらも欲望を追究せざるを得ない人々)にコミットして動向を追っておくことは、即ちそのまま時代の潮流の先端を追うことになる。欲望と向き合えない人間と社会は不幸だ。


美少女は女性をエンパワメントする


 キズナアイのファン層のうち女性が何割しかいないとか、再生数の多い動画の傾向はこうであるとか、そんなことがどうしたというのか。いつから数字の話になったのだ。「多数派を基準にする」というのは市場のやり方であって、理念や制度を論じる時のやり方ではあるまい。



「相槌役」解釈は事実に反する




 今回の番組が「規範の再生産」であるという主張自体が(控え目な言い方をすれば)事実誤認であることが周知されてきたが、千田氏はいつまでこの論点に固執するつもりなのだろうな。

 NHKにキズナアイが聞き役で出た→キズナアイが選ばれたのは若い世代に人気があるから→キズナアイが若い世代に人気があるのは目に快い女性差別を内包しているから、という思考回路なのであれば、NHKにさえ責はないということになるはずだが。その場合、NHKを責めるのは単なるポジショントークだ。

 NHKが複数の候補の中からキズナアイを選んだにせよ、そこに働いた力学の中から「アホのふりをした女性が男性に教えを乞う規範」の寄与を見積もることは不可能だろう。「可能性がある」以上のことは言えない。そういう叩き方をしたいなら、初めから学問としてではなく運動としてやればよかったのだ。


 とりあえず、今からキズナアイ騒動に参戦しようという方には、これまでに交わされた議論に目を通してから来ていただきたいものだが。「相槌係」説は印象操作という決定的報告がなされたのは、今を遡ること一週間前の10月4日のことである。本件は過去のエロバッシングとはやや毛色を異にしていた。


人権は集団ではなく個人に帰属する


 ここで「市民的公共性」というのは、「女性がアホのふりをして男性に教わる構図を再生産しないようにしましょう」というコンセンサスを形成することなのか? それは性役割の固定から一歩も出ていないし、本音がそこにあるようにもとても見えないのだが。

 NHKのキズナアイの扱い方を批判したいのであれば、そこだけ批判すればよいのだ。乳袋や搾取の話などしなければよい。だが実際には、ポルノの文脈としても支持を得たいという言外の意図が露骨に見えるのだし、その文脈で和解(あるいは、賠償)が成立しなければオタク侮蔑の話は一歩も前に進まない。

 例えば今回の件を「LGBTを尊重しましょう」という話と同列に扱いたいのであれば、現実の女性の待遇を改善しましょうと言えばよい。LGBTの雇用や育児やトイレなどの現実の問題を解決するのと同様にだ。「異性愛者が大手を振って暮らしていることは、異性愛規範の再生産だ」という理屈はまさか通るまい。

「国による表現規制を受けないために、市民的公共性で自主規制しよう」という論法だが、今後しばらくの国家が「女性がアホのふりをして男性に教わる構図」に異を唱えるとは到底思えない。それは彼女らこそ分かっているはずだ。であれば、ここでの市民的公共性とは「教わる構図」の話を指してはいない。





オタクであることは表現抑圧を免罪しない

 表現の自由の「嫌われる表現をこそ守る」という原理からすれば、「搾取、規範の再生産、それがどうしたのか。個人の人権と衝突しないなら表現規制の理由にはならない」と言うべきなのだ。原理的にはな。


 出っ歯のイエローモンキーめいた描き方が欧米人にとっての日本人のイメージだった時代もあったが、実際には抗議行動ではなくこちらから大量のキャラクター表現を発信することによって、その印象をある程度書き換えることに成功したのではなかろうか。表現に対する抗議とはかくあるべきだ。





「キズナアイ自身を潰せというのではない」という主張が、百歩譲って本心だとして、千田氏は「今NHKがキズナアイを取り下げることは、別にキズナアイ自体の死ではない」と考えているのではないかと私は邪推する。そうだとすれば、それは「青酸カリを飲んでも死なない」というのと同じくらいの誤りだ。


 もし今NHKがキズナアイを取り下げれば、キズナアイ当人のみならず「キズナアイ的なもの」(Vtuberに限らない)全てが、今後一切の活動の場をさらに狭められることになる。活動家は「抗議によって表現を一つ潰せた」という実績を得る。表現は、一つが一箇所で死ねば、緩やかにではあるが全部死ぬ。


「公共の場に相応しい表現を出せと言っているだけだ」という反論はあろう。「相応しい」を誰が判定するのかという問題が一つあり、次に、「そんなことは今ある表現を潰す理由にはできない」という問題がある。「次の機会ではどのような表現がいいか、一緒に考えましょう」と我々は主張する。


 そして、その「次の機会で出す表現」を考える場に、我々は「性的なものは本当にパブリックな場に相応しくないのか?」「規範の再生産とやらがこの表現で本当に起こるのか?」「デメリットに見合うだけの巨大なメリットがあるのでは?」といった問いをねじ込むだろう。


 私がキズナアイに「氏」を付けずに呼び捨てにしているのは、キズナアイが企業にプロモーションされた、自律した人格を持たないキャラクターだと知られているからだが、大多数のVtuberはそうではない。自己申告で判断するしかない。「人間かどうか」という問いが無意味になる時代がもうすぐやってくる。


 この「次の機会」というのは、「次に主として私たちが表現を発信する機会」のことだ。そうでなければ第三者による事前検閲となる。「その場に相応しいか否か」を論じること自体が一種の差別であるというまつもむし氏の見解にも留意する必要があろう。


「制約があってこそ創意工夫や楽しさが生まれる」という寝言がある。これは、創意工夫の自由が残る程度の制約、今を耐え忍べばやがて抜け出せる程度の制約についてのみ正しい。ハングリー精神は、どこかに食物があるという確信がなければ発揮されない。そうでないような制約のことを、絶望というのだ。


 何を描いてもお気持ちで難癖をつけられ、初手から法規制や業務妨害が飛んでくるような「市民的公共的対話」が、果たして創意工夫の余地を残すかどうか、今一度考えてみられよ。それに諸君は、否、我々のうちの誰も、他人に創意工夫を命令できるような権利は持っていない。



「安易な」規制にのみ反対するということは不可能であり、相槌係の問題は事実に反する上に恐らく氏の本心でもなく、男女共にファンがいることはまあ事実だが、市民的公共性の理解が全くずれているという点については完全に同意だ。


「好きな作品があり、それがたまたまオタク文化に属している」、あるいは「発信者としてオタク文化に一定の貢献さえある」ということと、「表現の自由を包括的に守る意思があり、その理論をある程度学んでいる」とは別の事柄だ。安易でない規制ならよいという理屈は今では通用しない。


 別に誰がオタクを憎んでいようがいまいがどうでもよい話なのだ。我々は既に生まれた表現を殺そうとする者、これから生まれ出る表現を外から中絶させようとする者には抗する。「オタクは嫌いだが表現規制はしない」と明言する者には、良識あるオタクは攻撃を加えないだろう。嫌われるのには慣れている。


 今回反発を招いたのは、NHKへの抗議を呼びかけた太田氏に乗る形で記事が書かれ、千田氏による太田氏への批判が見られなかったからでもあろう。取り下げは表現の殺害と同じ。よしんば「規範の再生産」という話には同意できても、それを理由として今ある表現を殺すことには同意できないのだ。


「オタクが嫌いなわけではない、その証拠に初音ミクのグッズを持っていたり漫画家と親交があったりする」という抗弁は通用しない。何故なら、オタクの多くは、他のオタクのことを元から味方と思っていないからだ。特にゼロ年代までのオタク文化は、基本的に自虐のコミュニティだったのだ。


 オタクは「一人一派」のコミュニティだ。同じオタク・同じジャンルでも、全く同じ好みはあり得ない。熱意の大きさ故に、踏み込んだ話をすれば即宗教戦争だ。それだけではない。外患がある。一人一派だが、殺される時は一蓮托生だ。ただ一つ、「欲望を取り扱っている」という巨大な共通点があるからだ。


 オタクは分かり合えない。だが同じ穴の狢ではある。それは分かっている。だからこそ、「我々はキモい」という合言葉で自浄作用を保ってきたのだ。私は宮崎事件の頃を知らない。だが、あの時オタク有害論が「工業的に大量生産」されて、オタクコミュニティがどうなったかは断片的に聞いている。


 他のオタクは基本的に異教徒であり、また外患を呼び込まないように相互監視もする必要がある。「初音ミクが好きだから見逃してくれ」とはよく言えたもので、腐女子の会話で似たようなことを言ってみたまえ、下手をすると膝から下が飛ぶどころでは済まないぞ。


 小池百合子氏が知事に就任した時、コスプレをして「コミケも応援します」のようなことを言った。これに対して山口弁護士が「コスプレなどしなくても、規制をしないと一言言うだけでよい」と言った。オタクの信頼を得るのにオタクである必要はない。逆も然りだ。我々は麻生太郎氏の件で懲りている。


 良識ある諸君は、「自分が徹夜組をやるのはオタクが嫌いだからではない 、その証拠にコミケにも来ている」とか「自分がイェッタイガーをやるのはオタクが嫌いだからではない、その証拠にアイマスのライブにも行っている」と言われて矛を納めるだろうか? 今回の炎上にはそういう要素もあるのだ。



 かつてオタクだった層が成長して、絵にエロを見出す感性を悪用して今のオタクを叩いているという説には首肯できない。今叩いている世代はもう少し上のような気がする。だが、オタクは忍ぶもの、忍ばなければ殺されるという大前提のあった世代には、今の表現の自由の議論はなかなか危うく見えるだろう。

 そのような層は自主規制に過剰な期待をかけがちだが、その「自主」の主体はオタク本人たちではなく大口のプラットフォームであり、その中の人は必ずしも誠実な味方ではないことが近年明らかになってきた。自主規制は、憲法で禁じられてこそいないが、やはり表現の多様性を損なう道なのだ。



その他、論者自身に関すること

 面白いことになってきたな。我々の多くが元のキズナアイと「フェミニストのキズナアイ」(少年ブレンダ氏がキズナアイのモデルを使い「フェミニストのキズナアイです。女の子の身体は女の子のもの、あなたのものではありません」という声を当てた動画のこと)との間に同一性を見出さない以上、この二者は「別のキャラクター」なのだ。「キズナアイがこういうことを言ったらどう思う?」は無効で、あくまで「こういうことを言うキャラクター」が新しく生まれただけだ。

 だが、「こういうこと」を言うためにわざわざキズナアイの身体を収奪したことは、我々オタクにとっては問題ないが、フェミニズムの教条には反するはずだ。キズナアイの身体はキズナアイのものだと何故言わない? キズナアイに、彼女が自ら選んだものとは異なる役割を押し付ける。これは、差別では?

 はっきり言っておく。キズナアイが本当に自我を持ち、自ら「女の子の身体は女の子のものです、だからそのように描かない表現は殺します」と言って具体的な行動を起こし始めたならば、我々オタクは即座にキズナアイを炎上させ、土下座を強いるだろう。現実の人間に対するのと同じように。

 個人の身体は個人のもので、他の誰かのものではない。だがキャラクターの身体は、これとは事情が異なる。キャラクターの身体は、それを見る誰のものでもあるのだ。女性キャラクターが女性だけのものだというのは、それ以外の者からキャラクターに自己を投影する権利を奪うに等しい。


 千田氏は日頃から「twitterで議論はしない」としているが、今回の件に関してはそれは好都合だ。twitterの議論に炎上当事者の保身が絡むと、その場の売り言葉に買い言葉で議論が非本質的な方向に逸れ、何の知見も得られないままに終わることがままある。今回の件は特に、それで終わるのは惜しい。

 保身がしたいなら、発端の太田啓子氏のような「ポルノ視点で批判し、明確に取り下げを要求している人々」への不支持を表明すればよいだけの話なのだが。オタク関連では悪評のある伊藤和子氏ですら、今回ポルノ視点では擁護したというだけで好意的に評価されているのだから。

 結局、オタクが最も嫌っているのは依然として「ポルノ視点での非難と規制」であって、規範の再生産という指摘に対しては「まあそうかもしれない、配慮の余地はある」くらいの感覚でいるようだ。ならば、まずは「ポルノ視点での嫌悪感を隠して高尚な理由を後付けしている」という誤解を解けばよい。

 今回の件では、嘘やダブルスタンダードを指摘できる局面が多い。フェミニストのキズナアイもそうだ。あれが問題視されるのは、著作権や利用規約違反ではなく、彼女自身の主張と矛盾しているからなのだが(表現の自由に照らせば、守るべきグレーである)、当のオタクもそのことを言語化できていない。

「女の子の身体が女の子のものだというなら、キズナアイもそうではないか」「キズナアイを現実の(身体を持つ)女の子と結びつけたのはあなた方ではないか」という心理を、上手く言葉にできればよかったのだ。「我々は表現の自由として守るが、あなた自身はいいのか?」と言うべきだった。

 騒動の最初期は、彼女たちがキズナアイを現実の女性と結びつけたのはあくまで「表象」を介してであり、キズナアイが身体を持つとまでは言っていなかった。しかし「キズナアイがこんなことを言い出したらどうする?」という発言により、キズナアイに自律の可能性、身体を持つ可能性を示唆してしまった。

 キズナアイが身体を持つと仮定した上で、明らかにキズナアイとの同一性が認められない声と台詞をその身体に入れてしまったのだから、これは身体の収奪である。繰り返すが、オタクがやるならこれは問題ない。慣れている。だが「あなたがやるのは言行不一致であろう」、そういうことなのだ。

 そして、何故オタクがこのような心理に至るかと言えば、オタクも元からキズナアイを何か一個の人格のようなものとして認識しているからだ。二次創作の伝統や「現実と虚構の区別」論法で覆い隠してはいるが、虚構は徐々に現実と同等の重みを獲得しつつある。美少女文化は「見立て」の文化だ。

 そしていつもの方向に話を逸らすが、少年ブレンダ氏が「キズナアイを乗っ取ってやった」と思っているなら、それは間違いだ。キズナアイが、少年ブレンダ氏を、乗っ取ったのだ。植物が鳥に果実を食わせて種をばら撒くように、キズナアイは少年ブレンダ氏を使って「キズナアイ的なもの」を一つ殖やした。

(以降は「美少女は女ではない」の項へ)

「何故、キズナアイが現実の女性に似た姿なのか」と問われるならば、「何故、ここで叩かれているのがオタクなのか」と問い返すこともできる。千田氏の著書にあるように「問題の立て方自体が政治的」なのだから、粗を見出すか見出さないかの判定にオタク性が関わっていなかったとは断言できない。

「キズナアイの支持層は若年男性」というデータに対しては、「それがどうした」で終わりだ。他に何も言うことはない。いつからフェミニズムは人間を数字として見るようになった。

「(承前)わたしたちが物事を認識するその枠組み、その意識のおおもとを変えることによって、『女』とは何か、『性』とは何かといった定義を変えていくことで、あらたなものの見方を獲得し、あらたな社会を組織していくような、そのような言語実践のことです」(『女性学/男性学』千田有紀)

 この実践の最先端を行き、実際に最も大きな成果を上げているのは、疑いようもなくオタク文化だと私は思うのだが、どうか。我々は、かつて現実の女性の似姿に過ぎなかったもの、そして我々自身がそれに向ける欲望を、数十年でここまで違う意味合いへと変質させたと自負しているのだが。



 千田氏は、自分の言葉では一言も、「キズナアイは性的」「性的なものは引っ込めろ」「従ってキズナアイを引っ込めろ」と言っていない。我々が千田氏から受けているそれらの印象は全て、大量のRTによって言外に、論ではなくお気持ちとして提示されたものだ。そこの混同をあちらは突いてきている。

「私の記事を読め」と言われて記事を読めば、確かにそこにはオタクそのものへの批判はない。これは意図的に藁人形の幻覚を見せる戦術で、我々は「書いて“は”いないこと」に誘い込まれているのだ。ここは、千田氏が太田氏らの「引っ込めろ」言説を批判していないことを指摘するべきだと思うが如何か。

 そして、「キズナアイの発言は相槌に終始している」という前提そのものが危ういことは既に指摘されているため、「仮に相槌役だとして~」のような効かない攻撃を仕掛ける前にきちんと先人の功績を確認しておくべきだ。


 千田氏がアカウントに鍵をかけたが、病膏肓に入るという奴で、これより闘争はいつもの第二ラウンドに入る。ネットの議論は中立層の奪い合いに過ぎず、強固な意見を持つ者を転向させる力はない。現代の表現規制問題の主戦場はネットではない。立法の場と、創作の場と、教育の場だ。


 千田氏に印税収入を入れるのを厭う方には申し訳ないが、フェミニズムの歴史と考え方を概観するにあたって、『ヒューマニティーズ 女性学/男性学』(千田有紀、岩波書店、2009)は普通に良い本だと私は思う。諸君がフェミニズムを敵視するのだとしても、敵を知ることは必要だろう。

 フェミニズムの目的そのものは悪くない。それは女性の解放であると共に男性の解放であり、より深くは、記号と論理に分節されない生の実存というものに目を向けさせる意義も持つ(私が魔術師として重視するのはこちらだ)。問題があるのは一貫して手段の方だ。

『お笑いジェンダー論』(瀬治山角、勁草書房、2001)も良い。こちらはあまり「女性が、女性が」という本ではなく、性に関わる問題を多岐にわたって俯瞰的に紹介するという体で、構造が男性に課している抑圧という視点からの言及が多い。歴史の話はあまりない。


 社会学で査読論文が重視されない事情は分かった。理系とは論文そのものの意味合い、どころか「確からしさ」についての考え方からして違うらしい。それはそうかもしれん。が、それならば社会学には、表現の自由の侵害を正当化するほどの権威を名乗る資格があるのかという疑問はなおさら募る。

 そしてこの「確からしさ」に対する温度差があるために、酒や煙草が身体に及ぼす害とエロ本が青少年の健全な育成に及ぼす害とを同列に語ることには私は同意できない。後者の害は実在するかどうかすら疑わしいし、実在するとしても前者のように「読めば読むほど増大する」代物とは思えない。

 そもそも査読があろうとなかろうと、社会学は個人間の現象について判断を下せないのだから(私はそう考える)、個人の人権と衝突する場合にのみ制約される権利である表現の自由に対して正当に傷をつけられる武器を一切持っていないはずだ。



 喧嘩マナーの悪いオタクがいるのは事実だが、我々はもはや、そういう層は一定数いて、全てを啓蒙することはできないのだという前提のもとで戦略を考えるしかないのだと思う。オタク集団が「指導者」のようなものを戴くようになるのは好ましくないが、そこはまあ上手い具合に……

「オタキング」を名乗り、ヒエラルキーのあぶれ者であったはずのオタクの内部にヒエラルキーを再生産することに無自覚であった(ように見える)という一点において、私は岡田斗司夫氏を快く思っていないし、また最近であれば、例えば山田太郎氏を必ず礼賛しなければならないわけでもない。

 しかし、オタクが(ほぼ)共通して認める指導的権威が一つだけある。それが何であるかは、自明であり、またトートロジー的でさえあるので言わない。オタクを導く勝利の象徴があるとすれば、最低条件は「それ」であることだ。


 キズナアイ騒動で一つ、番組に対する主張の是非とは別に気になったのは、ジェンダー論の研究者である千田氏が、非常に権威の好きな人物らしいということだった。教員は生徒に成績をつけるものだし、裁判は国民の権利の一つではあるが、ああも強調するとそれ以上の含みを匂わせてしまう。

 抑圧的な社会構造を変えるために、権威に縋り、自らが権威となることは、「とり乱しウーマン・リブ論」の立場からは当然アリであり、私自身も戦略としては有効だと思うが、そのような思考法に溺れれば結局、抑圧の矛先を逸らすだけの、「いじめっ子をいじめ返す」だけの活動に陥るのではないか。


 今回の千田氏の態度については、「言及されなかったことにこそ核心がある」という図式の典型例であるから、発言をまとめただけでははっきり言ってあちらの思う壺だ。自分の口では八方美人めいたことを言いながら、彼女たちは大量のRTにこそ本心を託している。それを記録し可視化せねばならないだろう。


 キズナアイのファン層の調査結果について、千田氏は質的調査の重要性を強調し、母集団の検討や再現性・客観性には意味がないと主張した。そのような調査方法によって見えてくるものもあるということは私も認めるが、では次の問題は「その質的調査は、誰かに何かを強いる理由になるのか」ということだ。

 再現性のある数字を出せないなら、酒や煙草に課せられているような一律な規制の理由としては弱過ぎる。自主規制圧力のネタに使うとしても、突っ撥ねる余地がいくらでもある。千田氏は「数字は操作可能で信用ならない」と言うが、再現性に注意したデータならそこも検証できる。質的調査の方はどうだ?

 統計とは、限られたサンプルがどの程度「見えない全体/真実」を反映しているか推定するための手段であり、誤差とバイアスの存在を最初から認めた上で、それらの程度を見積もろうとするものだ。完璧な体系ではないにしても、規制のような重大な決定を下すにはそのくらいの慎重さがあって当然だろう。

 統計は優れた道具だが、使い方によっては悪用や誤魔化しはできる。だが、それを言うなら文系のやり方はどうなのか。人の権利を制限するための説得力を与えるという目的に対しては、質的調査は優れた道具ですらない。どころか、悪用や誤魔化しそのものではないかと批判されているのが現状だ。


その後

 十月末以降、ノーベル賞解説記事を直接扱った言説は減り、児童書の絵柄が萌え絵様式になってきていることなどへと表現の自由界隈の議論の中心が移ってゆく。しかし、その後も絶え間なく噴出した美少女表現炎上騒動の中で繰り返し現れる論法のほぼ全ては、このキズナアイノーベル賞騒動の時に既に出ていたものだ。繰り返し出てくるということは、これらの論点について世間的な合意が未だ形成されていないことを意味する。特に「アイデンティティの象徴としての美少女」という考え方は、Vtuberの出現によって初めて言語化されたものであり、理解の浸透に向けて苦難の道のりの途上にある。


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〈以上〉

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