twitterアーカイブ+:陰陽、三界、梵

 発端は、女性から「キモい」と言われた不審者が逆上した案件であり、それに乗じて知己のSangyoh_sus氏と同じく知己のtomananaco氏が男女という言葉の使い方で口論したことだった(口論のツイートは削除済み)。しかし、もはやそれは重要ではない。このアーカイブは私とSangyoh_sus氏との会話をまとめたものである。

 人の内に共存する理抑的な精神と狂欲的な精神を呼び分ける言葉は太古よりあり、それは「陽」「陰」というのだが、これも今となっては陰陽思想から逸脱した階級的イメージで語られてしまっており、なかなか推し難いな。「個性化と全体性」……「分離と溶融」……「図と地」……「安達としまむら」……

 「陰陽百合」という概念によって、あらゆる種類のヘテロセクシズムが百合に含まれることが自然に導かれ、TS百合を巡る論争も必当然的に霧消する。そもそも、ホモ/ヘテロという区分自体が陰と陽に対応する。同性愛を魂の欠陥と呼んだアレイスター・クロウリーは、ここまで辿り着けなかった……!


 男性にクリティカルに刺さる言葉が「キモい」であるなら、女性にとってのそれは……本当に「ブス」なのだろうか? 容姿と人格を丸ごと否定する言葉が他にあるはずではないのか? それとも女性の場合、容姿を否定されることがそのまま人格否定に結びつくような機構があるのか?

 男性が、「キモい」という罵倒語に浮足立って反応すること。フェミニズムの文脈による性表現規制に激しく反発すること。性的同意を取ろうとすること自体が加害として扱われるのではないかと不安に思うこと。これらは全て、「欲望の存在そのものは否定しないでほしい」という切実な願望に根差している。

 そう、だからこそ女性への「ブス」や「売女」が男性への「キモい」と同等に刺さるとすれば、それは肉体と精神との(社会的)関係がやや男性と異なる、斎藤環の言葉を借りれば「母から娘への『女性らしさ』のしつけは身体性においてなされる」というあたりの事情によるのではないかと思っている。

(Sangyoh_sus氏に答えて)この議論は、女性にとってクリティカルな罵倒が「ブス」であるという仮定にとりあえず依存しているため、「バカ」が問題になるなら話は変わります。女性性において、身体だけでなく機能全般が存在と分節されていないとすれば、その理由を探りたいところです。

 キズナアイ騒動は、インテリ(知的能力)の問題なのか女性(客体化一般)の問題なのかの切り分けが必要だと思いますが、分節と非分節が根源的欲求であることはもちろん私も認めるところです。問題は、やはり、非分節性を女性性の本質だとすることが妥当か、ということになりす。

 身体性をそのまま非分節性と結びつけて考えてよいなら、女性性を非分節性と結びつけることも自然ですが、前述の斎藤環がそのようなニュアンスで「身体性」という言葉を使っているのか、すぐには判断がつきません。

 ちなみに私自身は、身体性はほぼ非分節性と同義だと思っていますが、それは個別具体性と所与性に由来する性質だと理解しています。クオリアの置かれた座標が身体、というくらいのニュアンスです。しかし、その個別具体性は有機的構造に由来するのかもしれないとは思います。


 図には同意しますが、後半の「座標なきアストラル界の中央」という部分のニュアンスを掴みきれていません。まず、社会においては悟性は座標上のある点として規範化されており、そこに人格を保持するよう理性と感性を調整すべき、という描像があるのでしょうか。

 その上で、アストラル界においてはそのような安定した価値基準がないため、常に外界の刺激と心の応答を照らし合わせて、あくまで現象論的に理性と感性の出力を更新し続ける他ない、ということかと現時点では解釈しています。

 私はアストラル界という言葉を、アートマンに比べればかなり浅瀬の部類として使っているため、そこで混乱したようです。しかし一方で、アートマンという言葉も大袈裟過ぎるとも感じます。アートマンはこの弁証法の全体を支え、常に“ある”ものでしかないと捉えているからです。

 私はアートマンにおいて幸福と非‐幸福の区別はないと考えますので、何らかの喜ばしい状態があるものとして語るなら、もう少し浅い層にそれを見出したいと思います。その層の選び方の一つとして、生理状態は適切でしょう。

 生理状態程度の深度の層を問題にするのであれば、座標がないというよりも、人間状態空間における何らかのポテンシャルを導入し、理性と感性とポテンシャル勾配と社会的要請の四者でつり合いを実現するという描像が美しいかと思います(基底は直交するよう取り直せるかもしれません)。

 双方のアートマン理解を折衷すると、図のようになるでしょうか。 西洋魔術も、クロウリー派に関する限り、道教をはじめとする東洋思想を取り入れているため、道具立てが異なるだけで目指すところは同じです。ただ、西洋魔術の方が実践のための道具立てが充実しているとは思います。

三界と梵1

 三つの性質の起源、及びそれらと男性性・女性性の関連については、特に異論はありません。一人の人間のうちに両方の性質が同居することも自然でしょう。「旧来“男性らしさ”“女性らしさ”の名で要請されていたものの内実」というくらいの表現の方が角が立たないとは思いますが。

 図を描き直しました。 西洋魔術の技法を学ぶための邦訳文献としては、バトラー『魔法修行』が入門者向けとされていますが、魔術の考え方と具体的な儀式次第が網羅的に述べられているという点では、クロウリー『魔術―理論と実践』上下巻が結局はお得だと思います。

三界と梵2

『生き延びるためのラカン』については、webで公開されているものを第三回まで読みましたが、やや噛み砕き過ぎ、また天下り的のきらいがあり、自分で妥当性を考えるのに不都合だと思ったため、『ラカン入門』を買いました。まだ読んでいませんが、不明点があればお尋ねしようと思います。

 私は大学一年の時の主題科目で仏教学を取り、同様の内容のレポート(原始仏教とアブラハムの宗教を、風土の違いから説明しようとするもの)を提出しました。教員曰く、そのような説を否定する研究は既にあるとのことでした。まだそれ以上調べたことはありませんが、参考までに。

 観念的にはそう考えるのが自然だと私も思いますが、宗教へのラベリング(寛容⇔峻厳のどこに配置するか)などが仮に妥当であっても、気候風土との相関だけでは説明できない結果があるのかもしれません。それを、他の要因に埋もれているとみて切り分ける試みはできるかと思います。

 『銃・病原菌・鉄』のようにほぼ全ての要因を地勢に帰し、別物に見える要因も実は地勢の関数であるとする立場から、一見無相関に見える結果も説明できる可能性はあります。あるいはセルオートマトンによる数値実験で……。いずれにせよ私は、まだこの件について確信は持っていません。



 心が大きな変動や小さな変動を求めることは(「カタルシス的快楽を求めがち」のような表現で)理解できますが、身体性の中に種の拡散/保存という項目が入るということには疑問があります。つまり、「ばらまく性」のようなものを身体感覚として引き受けることは可能か、ということです。

「欲動が外部へ向かう身体性」のような言い換えができるのなら分かりますが、ここには生殖細胞の入り込む余地がありません。生殖細胞の機能は個体の知るところではないからです。生殖細胞を絡めるなら繁殖に身体性を規定する力を与えるもの、例えば間脳を導入する必要があるでしょう。

 また、大きな変動を求めるカオス的個体が、そのまま旧来的男女観における男性像と一致しているとは思えません。理性(再現性の思考)が男性的性質とされていることがその例です。そして再現性の思考を考慮すると、今度はカオスという呼び方が妥当かという疑問も浮かびます。

 旧来的規範における男性像が大きな変動を求めるとしても、それは変動の起きる軸が既に定まっている場合に限った話だとも考えられます。今ある軸を丸ごと破棄するような変動を、恐らく旧来的男性は好みません。これはカオスとは真逆の性質ではないでしょうか。

 このあたりの言葉遊びは他にも提示することができ、例えば「混沌は内部の変動は大きいが、混沌自体としては何も変化しない」「規則正しい刺激で起こる女性型オーガズムはコスモス的か?」などが考えられます。

 私は旧来的男女観を説明するにあたって、「差分凸と累積凹」という表現を仮に提出しておきます。これは、カオスとコスモスという言葉の理解について慎重でありたいという立場の表明でもあります。(精神医学に抗して、「差異凸と反復凹」という言い方さえできるのかもしれません。)

 狩猟(大型動物相手のもの。採集者も小動物や卵を捕獲するため)は差分的個体の「白黒をつけたがる」性質から、採集はそのまま累積的行為として説明できなくもありません。しかし、現実の社会制度の起源を図式的に語ることについては、私は判断を保留します。


 悟りとトラウマについては、同意します。従って私はトラウマを無条件に避けるべきものとは思いません。むしろ、一度離反したかに思えたものが後に和合することでより深い悟りを得ることもあるでしょうし、そのような体験は「物語は続いていく」という実感を与えるでしょう。


 128類型についてですが、カオス/コスモスは理性/感性と別物として扱えるのでしょうか? 例えばカオスを大きな変動と呼び換えたとしても、変動を変動として認知できる点で再現性たる理性の領分であるはずです。カオス/コスモスを外因に含めることにも違和感があります。

 また、カオス/コスモスや理性/感性のような抽象性の高い概念は相互に絡み合っているため、私自身は二値分類自体にあまり関心を持っていません。相互に絡み合っているとは、重なり合うところがあるという意味ではなく、互いが互いを必然的に含んでいるという意味です。

 例えば再現性たる理性は、多様な事物の表れの裏に不変の共通項を仮定するという点で、あるいは「『多様な事物を分析する』という一回の行為」を遂行するという点で、即応性たる感性の業でもあります。私はそれぞれの概念を、常にこのような太極図的見方で見ることにしています。

  これはオフレコですが、私に憑いている死者は、かつて自販機の下の小銭を漁りながら昼夜を徹して北へ歩き続けた際、混濁した意識で「カオスとコスモスは表裏一体」という言葉を呟きました(164号)。

 疑問が二つ解けました。一つは身体性という言葉についてです。私は身体性を専ら「身体のようにみなせるという性質」、つまり個別具体性そのもの、アウラの類義語のように使いますが、産業さんは「身体のもつ諸機能」を含めた意味で使っている、この違いにより誤読があったのでしょう。

 もう一つは、こちらがより本質的ですが、これまでの議論で幾度かあった語義のすれ違い全般についてです。産業さんは人間の代数的構造を解き明かそうとしている、故に言葉と意味と構造との連関はいずれ解体され再構成されうる、という表現を与えて私は納得しました。

 近年の私はある限定された領域の脱構築に専心していたため、人間のより低次の機能を指し示す言葉については、批評をいわば棚上げしていました。その点は反省すべきところです。批評精神を失ってもなお魔術であるような魔術は存在しますが、これはまず人の形を捨てた魔術でしょう。


〈以上〉

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