twitterアーカイブ+:映画『すずめの戸締まり』感想:神は神らしく

『すずめの戸締まり』を観た。扉を閉めることは確かに今と地続きの未来を追認することではあったが、同時にすずめにとっては母への憧憬を男によって塗り替える話であるから、これが前作の陽菜の祈り――今と地続きでありながらも良くなる未来への祈り――と通じていると言えなくもない。

 その草太は、よくもまあ新海誠、男は美少女によらなければ救われないということをこれほど潔く開き直ったものよな。欲望を脱臭し、自己犠牲に殉じ、前兆なき美少女の到来を待つ――別の救済のビジョンはなかったのかと思うが、なかったのだろうな。脚が三本しかないのは去勢のメタファー。

(『闇ミル闇子ちゃん』より画像一枚)

 男が女子高生の椅子になって座られたり踏まれたりするシチュエーションにあるべきフェティシズムが、画角にほとんど感じられない。そのようなフェティシズムはむしろ救済には邪魔だというメッセージともとれるし、ただでさえ震災関連で叩かれやすかろう作品にこれ以上叩き所を用意してやることもない。

 セカイ系的な葛藤の末に災厄を止めることを選んでも、そこで物語を終えるのではなく別ルートで改めて救いに行くという点で、確かに前作を継いでいると言えるだろう。だが、どのみち誰かが犠牲にならねばならない。神にその役目を負ってもらうしかない、というのが新海誠の現時点での結論なのだろう。

 しかし、そのためにダイジンに憎まれ役を貫いてもらうわけにもいかない。神とは何かを貫くような分かりやすい連中でもないし(特に国つ神の類は)、どう演出したところで何かが犠牲になる構造は隠せない。たとえ要石を純然たる器物として設定しても、そこからさえ神が生まれるのがこの国だ。

「すずめ」と聞けばオタクは何と答える? そう、「こまどり」じゃな。何がこまどりに相当するか? その答えは一意でない。中盤の草太であろうし、椿芽であろうし、要するに我々が何かを意志して行う代償として払う全てのものだ。

『天気の子』において、異能によって災厄と戦うという構図を完全否定したはずだったが、ひとかけらの奇跡だけは必要とすることを否定しきれなかったようだ。それは糸守のトーラスであり、ビルの屋上の鳥居であり、要石である。人の心だけでは限界があり、どこかで超越的存在に託す局面が訪れる。

 草太の祝詞には不審な点がある。「掛けまくも畏き日不見の神よ」と言っているのだが、ヒミズはモグラのことで、ミミズを抑える役回りの別の神とする解釈と、ワニ=サメめいてミミズと同一視する解釈とがありうる。前者ではダイジンらが猫であるのが奇妙であり、後者でも「お返し申す」と整合しない。

 この祝詞の呼びかける相手は人間に国土を譲った神々であるはずだが、それに対して「お返し申す」が人間の生活を続けていくことに繋がるはずはない。ミミズをお返し申すと解釈する他なく、ということは「拝領仕ったこの山河」と「お返し申す」の間に失伝した部分があるのだ。

 ミミズのビジュアルや遊園地ライトアップなどは「こういうのでいいんだよ」だな。宮崎の廃墟の明るい不気味さの塩梅もよい。愛媛の方言は近畿に寄せ過ぎで、焼き魚の作画はもう少し頑張ってほしい。劇伴の暴力は流石にこれまでやり過ぎたと思ったのか、少し控え目になっている。

 また、全体的に台詞がやけに説明臭い。カットの繋ぎ方が過去作と比べても異様に不親切で「行間読み」を要求する仕様である分(我々はその不親切さが好きだが)、八幡浜あたりまでは見て分かる状況をもう一度台詞で説明しようとしてしまう。ラストシーンのすずめの長台詞もそうだな。

 結論として、新海誠の震災三部作においては、テーマ性は『天気の子』でピークに達しており、『すずめの戸締まり』は見た目通りのロードムービーとして各地の風物と生活に思いを馳せる――露悪的な言い方をすれば「安心して消費できる」――作品として観ればよいだろうと思う。

 すずちか? 知らない子ですね。この作品に恋愛(intimacy)の匂いはない。すずめと草太の間にさえもだ。

 ポニーテールのすずめを正面から映すカットの度にグレープアカデミー(ポケモンV)の戦闘狂生徒会長の影がちらつくのを抑えるのに苦労したが、これは些事。

我々は全ての台詞に表現意図を読み取ろうとするため、台詞を説明臭くされると厄介だ。例えば私は草太の「体が椅子に馴染んできてるんだ!」という台詞を「人は慣れる生き物である、災厄にさえ」と読むが、単なるアクションシーンの前置きの言い訳だとすれば脱力する。

 ダイジンが人の頼みを拒絶する時に一貫して「むり」という言い方をするのが、新海誠が意図してのことなのか、それとも言語センスから自然に出た言葉選びなのかも気になるところだな。無理、即ち「ことわりなき」とはいかにも神らしい言い草ではあるが、「むり」だけでは俗っぽさが勝ってしまう。


 神道ゆかりの遺物といえば高千穂近辺だと思い込んでいたが、愛媛に渡るフェリーが出て温泉街があるなら順当に大分か? 地図アプリ上の経路を憶えておらんな。具体的な地名が出ていないということは、ここの実在性は重要ではなく、過去の具体的な震災と重ね合わせることも求められていないのだろう。


 髪が長く、長いコートを着て、怪しいオカルト趣味のために全国を旅している。多少顔が良くとも、こういう奴が女子高生から一目惚れされることがないのは操刷法師を見れば一目瞭然なのだが、そのようなあり得ない事態こそが救済には必要なのだ。


 むしろ、人が人らしく目先のエゴを貫くことで初めて、神は神らしく犠牲としての本来の役割に戻れる、と言うべきなのかもしれん。あるいは、何かを犠牲にしてでも得たいものがあると強く願う者がいなければ、神も中途半端な望み(惰性による日常の継続)の犠牲には甘んじていてはくれない、とも。

 神とは第一に事物の擬人化であり、擬人化の目的は第一に責任を負わせることだ。これは現代の「AIに奪われない仕事とは何か?」という問いに対する身も蓋もない答えとも通ずる。人は形式的にでも他者を経由しなければ自分の行動を決めることも、自分の形を定めることすらできない。

 その意味でミミズのデザインが秀逸だった点の一つは、倒れる際に金色の糸に引かれるところだ。これによって、ミミズが意思を持って地震を起こすのではなく、大地そのものに組み込まれた機械的なシステムの一部であることが強調される。ミミズが擬人化されづらいようになっているのだ。

 ミミズが擬人化され(たかのように感じられ)てしまえば、「要石のような一時的で犠牲を伴う方法に頼らず、ミミズを打ち倒せばよい」という思考の入り込む余地が生まれる。だが、そのような「大きな物語に直接干渉する根本解決」を、『天気の子』以降の新海誠はもはや取れない。

「神威召還された創造神は、叶えて後、願いの大きさ相応の長い眠りにつく。そして、召喚の度に生贄として捧げられ消滅する彼女は、神の眠る間に、同胞の新たな願いを構成要素として生まれ出で、神の次なる目覚めを待つ。そういうシステムなんだよ」
(『灼眼のシャナXXI』[1])


[1] 高橋弥七郎『灼眼のシャナXXI』、KADOKAWA、2010


〈以上〉

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