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【書評シリーズ】「『欧米の隅々 市河晴子紀行文集』を旅する」②/斎藤真理子


絢爛たる細部、あるいはチョコチップクッキー


 読みはじめて2行めで、門司港で積荷をする起重機の様子が「ジラフが大きな稲荷寿司をくわえ込むよう」と描写されていて、いきなり痺れる。8か月にもわたる長旅の、まだ、たった2行めでしかないのに。

 でも、晴子さんの旅行記を読むには、こんなところで驚いていては身がもたないのだった。この描写力と表現力で、歴史、風土、文化、人情、国際情勢までが縦横無尽に書きつくされて、息つく間もなく痺れっぱなし。チョコチップクッキーなら、チョコチップの数が多すぎて、これはチョコレートなのかクッキーなのか迷うレベルだ。

『欧米の隅々』の魅力はまず文体にある。とにかくばねが効いているが、そのばねを支えているのは、「教養と茶目」かもしれない。ちょっと押したら、万葉集は言うに及ばず、陸亀蒙やブレーク、ブラウニングまで和・漢・洋の詩句がするすると出てくるし、飛行機に乗れば能の「羽衣」をひとくさり歌ってみる。そんな教養の厚みに、茶目の弾みと照れがミックスされて、開かれた、生動する文章になっている。

 晴子と夫の市河三喜が旅をした期間は、1931年3月から11月まで。旅をしている間に、英国が金本位制を離脱して世界恐慌が深刻化し、満州事変が起きる。日本も世界も大きくカーブを切る時期の見聞録だから、人間観察と国際情勢が四つに組んで、すさまじく面白いドキュメントだ。

 排日運動まっただ中の北京で、「二三日いるうちに、とっても支那人が好きになってしまって」と市場に向かう晴子さん。スペインでは「ここで私に、思い切り牛を讃美さんびさせてくれ」と前置きして、8ページ半も闘牛について書き倒す。「重油で煮染にしめたようなロシヤ人」「あの小じれったい、しかし頼もしい人々の国イギリス」といった寸評もおかしいが、デンマークでの「ヨーロッパで初めて、子供連れな事を本当に楽しんで歩いている連中を多く見かける」というくだりには感服してしまった。

 つまり晴子の人間観察の物差しは、「人が本当に楽しく生きているかどうか」だったのだと思う。この物差しの確かさが、本書の魅力の二つめだ。

 さらに、それだけでもない。例えばソ連の女性たちについて書いた箇所を見てみよう。「若い女に、とても健康らしい理智りち的な……まだあまり教養はたくわえられては居ぬが、それを吸集きゅうしゅうする欲望で頰を輝かしたような人が多い。私は好もしく、しかし夏だったら腋臭わきががありそうだなと目送もくそうする。私の汽車にも油じみた菜葉服なっぱふくにズボン姿の女の労働者が一人乗ったが、その生甲斐いきがいあり気な楽しそうな働きぶりは、キビキビしているがギスギスしないで快い」としながらも、「しかし一方には心をうちのめされ切った老女の顔が、ごくれに見たものだのに書き落しては済まぬような気のするほどに極端だった」と書き添える。

「書き落しては済まぬような」というカンを信じて、二つの肖像を二つともに残しておいてくれたことのありがたさ。晴子の物差しはこのように、強く確かなだけでなく、自在な「しなり」を持っている。「書き落しては済まぬような」、そういう記述が他にも、この本にはたくさんあるに違いない。

 29か国にわたる1931年の旅の記録は、日本では1933年に出版され、1937年にはアメリカでも「Japanese Lady in Europe」というタイトルで英訳出版されて大評判をとった。そこに目をつけられたのか、同じ1937年に晴子は、民間親善大使のような役割で単身、訪米している。当時はもう日中戦争が始まっており、悪化する対日感情をなだめるために、白羽の矢が立ったのだ。   

 この訪米については、晴子自身が「実際何故私なぞにまで国民使節なんてレツテルを勝手に皆が張るのか」()とこぼしており、気軽なものだったはずがない。けれども、ここはやむなしと、腹をくくって臨んだのではないかと思う。

喧嘩けんかをふっかけると云うが、親善をふっかけるという言葉があったら、正にそれだとみずから笑う時もある」と言い、プレゼント用の小さな人形、扇子、折り紙などをカバンにどっさり入れての旅だ。一度めの旅行記と比べると、せいせいした気分は減っている。それでも、グランド・キャニオンで一人の若者と感激を共にし、「喜びあふれてなぐり合いたくなる」「有頂天な喜びを分ち合う人間同志」と書く筆はみずみずしく、人生の朗らかな面を見ようとした晴子の強さが伝わってくる。

 それらの経験が出版されるのは1940年3月のこと。以後、2年足らずで日米開戦、さらに2年後の1943年には晴子自身が亡くなってしまう。

 晴子は、ファシスト党一党独裁のイタリアについて「こんなにレベルの低い社会を、男だけで改革して行こうとする点に、女の私の神経がよけいとがるらしい」と書いていた。マッチョと国粋主義が大嫌いだったのだ。そんな人なのだから、朗らかさがどんどん痩せ細っていくその後の時代を、どんなふうに見ていただろう。

 読みながら何度も、羅恵錫(ナ・ヘソク、1896-1948)という人を思い出した。奇しくも晴子と同い年で、東京の女子美術学校(現・女子美術大学)に学び、朝鮮初の女性洋画家となり、作家としても活躍した。1920〜30年代の朝鮮を代表する女性知識人だったが、その後ほとんど忘れられ、80年代後半以後、韓国で再評価が進んでいる。

 この羅恵錫も1927年から、法律家で政治家だった夫とともに、ヨーロッパとアメリカを回る1年3か月の旅をして記録を残した。彼女が朝鮮を出発したその年、これもまた偶然に市河晴子が朝鮮を訪れ、京城、開城、慶州などを旅している。そのとき晴子は家族に辛い出来事があった直後で、古い朝鮮風の墓の様子がしみじみと心に残ったようだ。(**

 二人の軌跡が重なることはなかったが、二人とも、二つの大戦にはさまれた戦間期に、それが「戦間」であると知らず旺盛に旅をした。その旅程を比べてみることは非常にスリリングである。例えば1927年の羅恵錫はワルシャワ通過後、「ポーランドは今般の欧州大戦で一個の独立国となり、国際間に列せられ……」と書きとめ、4年後1931年の市河晴子は、ピウスツキ独裁下のポーランドについて「どうも図々しい、意地の汚い国」とまで辛辣だった。このあたりは触れれば手が切れそうな、敏感に熱をはらんだ部分で、ダンツィヒ自由市の貨幣を両替しようとして拒絶され、怒るくだりなど、一つのクライマックスかもしれない。

 次の大戦への爆薬がじりじりと積み上げられていく中、二人のアジア人女性旅行者は、どこへ行っても、そこで女たちがどう暮らしているかを見てとり、よいところは伝えようとした。婦人参政権や夫婦関係のあり方、服装の合理性まで、じっくりと観察していた。

 晴子は敗戦と朝鮮の解放を知らず、羅恵錫は朝鮮戦争を知らずに死に、私たちはそれを知っているけれども、歴史の答え合わせを終えたつもりの平たい頭でこの本を読んでしまっては、つまらないだろう。私たちもまた、自分が生きている時代が後にどう呼ばれるかを知らないのだから。

 晴子さんの二度の旅の記録を読み、そのばねの強さを味わうことは、ウクライナでの戦争を目撃している今の私たちへの、静かな励ましではないかと思う。

 市河晴子が書き留めておいてくれた絢爛たる細部は、「今日」にとても近いところで脈打っている。

 

 最後に、どうしても書いておきたいこと。マドリッドで見た「ごく古い十四世紀頃の地獄の画」について、「心の底から、いい事しか考えられぬ僧正様が、衆生済度のために、無理に恐ろしい物を考え出そうとして苦まれたような、聖なる滑稽が、なまじっかな聖画より頭が下がる」と書いているところがいちばんおかしかった。

 こんなに笑ったのは、武田百合子が『富士日記』に書いている、狩野芳崖の「悲母観音」のとんでもない模写作品を見ておかしくてたまらなかったエピソード以来で、声を出して笑っていたら、しゃっくりまで出て止まらなくなった。『富士日記』のこのエピソードは30年も忘れていたのに、そのことまで強力に思い出させる喚起力がすごい。『犬が星見た』など武田百合子ファンには特に本書をお勧めしたい。

 

 */** これらの箇所は本書には収録されていないが、国会図書館デジタルコレクションの『米国の旅・日本の旅』で読むことができる。

斎藤真理子|さいとう まりこ
翻訳家。パク・ミンギュ『カステラ』(共訳、クレイン)で第一回日本翻訳大賞、チョ・ナムジュ他『ヒョンナムオッパへ』(白水社)で〈韓国文学翻訳院〉翻訳大賞受賞。訳書は他に、パク・ミンギュ『ピンポン』、ハン・ガン『回復する人間』、パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』、ペ・スア『遠きにありて、ウルは遅れるだろう』(以上、白水社)、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』、ファン・ジョンウン『年年歳歳』、ぺ・ミョンフン『タワー』(以上、河出書房新社)、ハン・ガン『ギリシャ語の時間』、チョン・ミョングァン『鯨』(以上、晶文社)、チョン・セラン『フィフティ・ピープル』、ファン・ジョンウン『ディディの傘』(以上、亜紀書房)、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)など。著書『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)。


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