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聞き齧りが彼岸のVR島を思う戯言 『VR誤訳論』に触れて ~ 「ほぼ現実」と「見做し現実」に弄ばれたVR観。そして超現実な空想世界の興し方?

VR島を対岸のtwitter越しに垣間見てるだけでも、熱狂とフロンティア感が伝わって来て楽しい。
生来の容貌から解き放たれた精神性が織りなす世界の賑わいは、此岸からはまるでずっとお祭をしているみたいに見えるんだ。
そんな折、「VR誤訳論」に触れる。

これが正直noteにまとめるほどの量になるとは、この時は思っていなかった。
日本VR界が独自の「空想世界」開拓に邁進しているのを知らなければ。

てかこの路線、日本独自なのね。他のVR界は違うんだ…
そんな聞き齧りの好き勝手な考察だから、読むなら眉に唾してどうぞ。狐でもなければつまむ気もないけれど。

1. はじめに「VR誤訳論」って?

詳しく知りたい方はこちらをご覧になってください。

ざっくり説明すると、

VR(virtual reality)、バーチャルリアリティは、「実質的現実味」のような意味で翻訳されるべきところを「仮想現実」とされてしまった。
果たしてそれは誤訳であるか?

ということ。
virtualの訳語には大まかに、「実質上の」、「虚像の」、「仮想の」とあるけれど、その当て違いがあった。
それぞれの「virtual ○○」ごとに適切な訳語を選ぶべきなのに…

まあ、だいたい合ってるよね。
「VR誤訳論」については、確かに誤訳であったけれど、これから先はどうなっていくかは分からないと思う。
お蔭で日本VR界は独自の「空想世界」開拓に邁進することになったという。実に興味深い。

2. 日本VR界が現実を超えた独自の「空想世界」を目指した要因は?

どうしてこんなことになってるの?
そっちの方が気になるのだけど……

「仮想」の言霊と文化の違い、で丸めて説明できるかもだけど、もう少し踏み込んでみたいんだよなあ。

個人的には、「仮想現実」の言霊が本来の方向性と出発点を違えて生み出した独自のVR観がまずひとつ。
もうひとつが「現実」認識。つまり共有されている「世界観」だと思うのだ。そもそも、認識している現実、生きている世界が違うのだと思う
それを丸めると、「文化の違い」なのだけど。

 2-1. 「仮想」の言霊、変質した方向性 ~ 「真に迫る」virtual realityと「信じるものをあらしめる」仮想現実

「仮想」の言霊。これがVRの印象にねじれを生み出し、日本のVRが本来のVRと方向性を違えるきっかけとなった。
日本固有のVR観はこうして形作られていったのだろう。あな素晴らしきガラパゴスの産声なりや!

ここでは、「virtual reality」と「仮想現実」の言葉が印象付ける方向性を探ってみたい。
バーチャルリアリティをWikipediaはこう説明している。

バーチャル・リアリティ(英: virtual reality)とは、現物・実物(オリジナル)ではないが機能としての本質は同じであるような環境を、ユーザーの五感を含む感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術およびその体系。略語としてVRとも。日本語では「人工現実感」あるいは「仮想現実」と訳される(#「仮想現実」という訳語について)。

「人工現実感」では、realityをrealと差別化して捉えている。
「仮想現実」では、realityをrealの名詞形として捉えている。

VRの「virtual」は「実質的」という意味、「reality」は「real」としなかった含みを意識すれば、「現実」「現実さ」「現実性」「現実味」「現実感」といったイメージをふんわり持とう。だから、virtual realityは「実質的現実性」「実質的現実味」を意味するだろう。人工現実感とも離れていない。
ざっくり訳したら、「遜色ない現実感」「ほぼ現実」「ほぼありそう」とかそんな感じでいいんじゃないかな。

一方で、バーチャルリアリティとして「仮想現実」と訳された「仮想」が意味するところは、「見做す」「見立てる」「信じること」「空想の投影」で、「現実」は、「ある」「実在」。
だから、「そうであると見做す」「あると信じる」みたいな感じ。

それぞれの言葉が持つ印象をまとめると、
virtual reality  「遜色ない現実感」「ほぼ現実」「ほぼありそう」
仮想現実 「そうであると見做す」「あると信じる」

これらの方向性を導くために、VRがテクノロジーであることを思い出す。
それぞれを追究する学問なのだから、virtual reality「ほぼありそう」を突き詰めれば、「どういう認知がありそうな認知?」「真に迫るには?」「現実って何?」「感覚の再現」みたいなことが注目されるんじゃないかな。

対して、仮想現実「あると信じる」を突き詰めれば、「信じるものをあらしめる」「信じているものって何?」「第六感とかファントムセンスとか」といったことが熱心に語られよう。

真に迫る「virtual reality」と、信じるものをあらしめる「仮想現実」
それぞれの領域が広がれば、やがて重なることになろうけれど、方向性の違いは着眼点を変えてしまった。同じ山を違うルートから登る感覚

 2-2. 「仮想現実」の言霊、浮遊する出発点 ~ virtual realityの「足許」と仮想現実の「飛躍した架空」

virtualの誤訳「仮想」の言霊は、VRに「信じるものをあらしめる」という方向性を与えた。
けれど果たして「信じるものをあらしめる」だけで現実を超えた独自の空想世界を目指すに至るだろうか。彼らがあると信じるものは何なのか。

思うに、virtualの認識とrealityの認識の掛け算に秘密があるんじゃないの?というわけで、ここでは「現実」に掛かった言葉の認識に出発点を探る。

現実はどこにあるのかという問いに対して、そもそも私たちは、知覚による認知の中に現実を感じているのだから、現実は認知に基づいている。
私たちが「現実」と認識しているものは、「自身の認知」に基づいている

これに従えば、virtual realityの訳ひとつで本来の意図に近い人工現実感「ほぼ現実」からVRに触れると、当然「人工現実感」のイメージをVRに持ち込む。
それは「ほぼ現実」ゆえ、どこまでも現実に寄り添った認知に関わっていて、出発点が「足許」に地続き

対して、もうひとつの訳語仮想現実「見做し現実」からVRに触れると、仮想だけに留まらず「仮想現実」ごとVRに持ち込む。
現実と見做すもの、つまり信仰あるいは空想を投影した現実(既にAR)の認知にも関わっていて、出発点が「見做す」「信じる」といった、ともすれば不確かで頼りない空ろさに立脚した場所に及ぶ。だから出発点が「飛躍した架空」まで地続き。これで現実を超えられる。

virtual realityの解釈から出発点とVRへの姿勢を探ると、
「virtual reality」は「足許」から「ほぼ現実」をVRで成し遂げる。

「仮想現実」は「飛躍した架空」から「見做し現実」をVRで成し遂げる。
それぞれのVRに対する意識の違いはより鮮明に表れる。

 2-3. 「文化の違い」が丸めているもの。空想世界に通底して暗黙裡に共有されている世界観

方向性と出発点を顧みて、VR本来の言霊「virtual reality」がもたらすVR観は、「足許」から「ほぼ現実」を迫真させるというものだった。
対して、誤訳で得た言霊「仮想現実」のもたらすVR観は、「飛躍した架空」からも信じるもの「見做し現実」をあらしめるというものだった。
何とか現実は超えたけれど、これだけでは仮想現実は「独自の」空想世界には至らない。ここでは、この独自性の在り処を考えたい。

どのような人も程度が違えど信仰のようなものを持っていたり、空想を描くことはあるだろうから、その世界観に由来する独自の空想世界は存在するだろう。
これを集団にして各々の世界観が重なった場合は、多く共通するものは肯定でも否定でもそれぞれの方向に色濃く現れる。そうやって集団固有の独自性は形成される。
場所をVRに移して、生来の容貌に左右されない特性を思えば、この傾向はいっそう顕著に現れるかも知れない。

だから、どの集団であっても「仮想現実」の言霊を与えれば、その集団独自の空想世界が形成されようことを疑う人はいないだろう。

たぶん日本VR界の人々は、持っている現実認識、生きてる世界、世界観が既にARで、彼らはそれを色濃く共有している。
そういったAR世界観(飛躍した架空)が出発点でそこに地続きなのだと思う。
少なくとも彼らは、「空想世界ごと現実と認識することに理解がある」という現実を共有している。
そんな彼らが
見做し現実ごとVR空間に持ち込むのだから、「見做すことでしか存在しなかったもの」「信じるもの」を顕現させるのは、彼らにとっては何も特別なことはなく、ごく自然な行為なのだ。

日本VR界に超現実な空想世界が実現しているなら、少なくともそこには三つの価値観が共有されているのではないかと考える。

まずは、多様な創造性を認めて積極的には排除しない寛容さ。八百万感?
それぞれの氏神(自分が好むジャンルやコンテンツ)は大事にするけれど、他家(自分の関心のないジャンルやコンテンツを好む人たち)にそれを強制したり排除したりが相互主義的に起こりにくいのは、ジャンルやコンテンツが溢れるほどに豊かだからだろうか。異教(他家、他ジャンル)よりも異端が憎いアンチみたいなのはいるけれど。

残り二つは実質同質で、ひとつは、実在現存しないものをあると見做せる世界観。
実在しなかったり、現存しなかったりするもの、例えば森羅万象もちろん発する言葉にも神が宿っていたり、池や川の向こうに浄土や神域や彼岸があったり、理想郷や伝説架空の生き物やアイテムとか、幽霊とか、妖怪とか、異種族とか、宇宙人、未来人、異世界人、地底人、超能力者、魔法使いとか、ばちや祟りや都市伝説やジンクスみたいな、神話伝説から日常に隣り合わせのオカルトまでもを分け隔てなく、良くも悪くも時には笑い、時には涙してしまえる土壌。

もうひとつが、反対に実在現存するものを無いと見做せる世界観。
例えば、歌舞伎や文楽の黒子くろこをいないものとして扱ったり、キャラクターの「中の人などいない」とか。村八分や集団無視みたいなネグレクト的モラハラはこれの負の側面だなあ。

こういった世界観が人々に受け入れられて共有されているのだと思う。

つまり、見做しレイヤー(投影する信仰や空想)の共有度が高い。
それは言語・文脈のようなもので、コミュニティが特定の価値観に揃って特化している、そういう世界観を共有するある種のエキスパート集団なんだと思う。
これらに基づいていたり、あるいはまったく関係ないけれど共通して持っている信仰や空想やコンテンツを見做しレイヤーとして投影された世界。そういった共通の世界観を持った人々で日本VR界が構成されているから、「信じるものをあらしめる」仮想現実の特異な独自性が保たれているのだと思う。それこそ外から見ると、「未来とか異世界に生きてる」と言わしめる要因なろうほどに。VRならいっそ異次元だけど。

分かりやすい見做し文化はシンボル。図案なら紋章や家紋や旗印、形状なら十字架や鳥居や卍。トンスラ、アトリビュート、持物、神使、印相、種子。特に宗教関係はシンボルの宝庫。
兌換紙幣は実質金だから、virtual goldだし。証券とかもみんなそうか。
一番身近なのは「名称」だろうか。あらゆる「ものの名前」は、その言葉が表すものの姿や概念を相互に想起させる。
視点を日常に向けたら、道路標識、天気記号に地図記号、礼儀作法とか、文字とか、花言葉とか、どの指の指輪とか、死亡フラグとか、「やったか」とか、初音ミクにネギとか、ファンマークとか、聖地に逸話や物語を思ってみたりとか。
他には、事故物件の不吉さ、動画のイマジナリーライン、写実性を求めないイラストレーション、自然科学の理想気体に黒体、数学の虚数、中学理科の摩擦や空気抵抗などなど。
それらが象徴するものが一つでも思い浮かぶなら、あなたの世界観はAR。ただし、データベースは今のところ脳内限定。

そういったお約束的なことであったり、暗黙の了解的なものであったり、信仰や迷信的なものであったりと、共有されている見做し文化自体は、それなりに時間が経過して成熟してきたコミュニティであれば、世界中どこでも発生し得るだろう。

3. まとめ。VRに現実を超えた独自固有の空想世界を興すには…

最後に、ここまでの成果として日本VR界のように超現実な独自固有のVR空想世界を興すための必要条件をまとめてみる。

・言霊「仮想現実」を獲得する
・共通の豊かなAR世界観を共有する
・粒揃いの猛者たちが大勢集まる環境を構築する
・VRに関わるインフラの安定を確保する
・創造性を受け止めきれるだけのポテンシャルをVRが備える

環境は世界観にも影響するよなあ。できれば何でもおもしろがれる方がいい。
宗教も世界観に重要なファクター。逸脱が許されなくなるし、排他的になりがち。
インフラも環境も、歴史や経済と切り離せない。
世界観は文化や歴史と切り離せない。
もしかしたら、彼らの想像を超えるVRを提供するのが一番難しいのかも知れない。彼らにとって、したいが見つかる、したいができる、魅力的なVRであり続けること。

…うん。どこでも簡単に実現できるわけでもなさそうなのは分かった。

さてさて、ここまで戯言に付き合ってくださった奇特な方、本当にありがとうございました。
もしかしたらVRは、過渡期の今が一番面白いのかも知れないと思うのです。
フルダイブの時代になったら、ファントムセンスも老人会扱いされたりしてしまうのかなあ。駅の伝言板に託した待ち合わせのそわそわ感覚や、家電いえでんのどきどき感覚みたいに。

4. 余談 ~ VtuberはVirtual YouTuber?

ところで、「Vtuber」は「Virtual YouTuber」の略だけど、virtualの意味に従えば和製英語っぽい。
って思ったら、元々「バーチャルYouTuberなんかい!
「Virtual YouTuber」ではなく「バーチャルYouTuber」と最初に自称したキズナアイは分かっていたなこれは。

VRのvirtual認識では「Virtual YouTuber」は「ほぼYouTuber」で、「バーチャルYouTuber」は「見做しYouTuber」
どっちも「だいたいYouTuber」って意味では違いが無いよ!

元々がYoutuberで、それをバーチャル「仮想の世界」に化生したYouTuberって意味合いで「バーチャルYouTuber」なんだろうね。

いい暇つぶしになれていたなら光栄です☆