読書感想文│坂口安吾「白痴」
この作品との出会いは幼少期だった。
はじめは常用でない日本語に抵抗があり、話がまったく頭に入ってこなかったことを覚えている。ただ、得もいわれない独特な暗い世界観にとりこになった俺は、暇さえあればその作品を読むようになっていた。
生々しい人間性が描写されている作品が好き、という点においては文豪・坂口安吾は四角四面文才に長けているだろう。太宰治や三島由紀夫からは得られない感受性というものも否めないのも坂口安吾であり、また、湯の町エレジーや金銭無情などは、生々しすぎるといっても過言ではないほどの世界観を催している。
思い返すと、いつかそんな風な「こわいがいっそフタを開けてみたい」と思ってしまうような文章を志しはじめたのもその頃合いだった気がする。
おおよそそういった類いの書物は電子辞書やフリー文庫などで手軽に読める時代になった。ゆえに触れやすいものでもあるが、逆に避けられやすいものにもなり、なおかつ嫌われやすいものにもなってしまったのだと思う。だが、だからこそ良いと俺はとらえる。与えられた餌を食べるのが当たり前になってきた昨今の時勢で、欲しいとねだる人間のみこそ得られる、選択の自由と自身の確固たる意思、好み、趣味が浮き彫りになるからだ。
当時はライトノベル最盛期だったということもあり、いわゆる一般書というものに触れる愛読者と出会うことはなかった。ネットというものを覚えてからは文学という世界にもカテゴライズされた区分があるということも知り視野が広がった。
タイトルに表じた「白痴」という作品は、はじめて出会ってから今もなおずっと頭からこびりついて離れないほどに衝撃を受けた作品であった。幼少期においては刺激性が強すぎる差別的な用語を用いたタイトル、加えてなんとも言い難い男女の肉体関係と心情・心理、風刺について深く掘り下げられたものだったので、拙く狭い世界しか見てきていないあおい幼児にとっては、理解できない「大人の世界」があったのだ。だからこそ惹かれた。愛読書のひとつである辞典を引っ張り出して、逐一単語の意味を調べた。生臭い単語を会得するたびに、憧れも強まる一方だった。でも、書きたいとは思わなかった。何故なら俺はその時代に生きていないので、どうしても絵空事になってしまう「トレース(模倣)」になるからだ。だから愛読という枠のみで留まっている。
それを思うと、斉藤壮馬さんは「現代のプロレタリア文学」に近い作品を描く秀才なのではないかと思う。現代人が抱いている「漠然としたなにか」を言語化するのは並の文才では叶わない。そしてそれらはフィクションとノンフィクションの狭間にあるべきであり、己の身を通した経験や体感が必要となってくる。しかし、そのもやもやをモヤモヤなりに表現、描写出来るのは、まさしく才能だと思う。
自分も趣味程度に文を書いて嗜む人間ではあるが、インプット時期になるとバカみたいに書物を漁りたくなる。作者がとおい人であればあるほど憧れは強まる一方だ。羨ましいなとも思わず、凄いなと思える距離感というのは、同じ趣味をしている者同士である以上、ベストな距離感なのではないかと思う。
それでは、本日はこれにて失礼いたします。
追記
下書きが消えたので、執筆していた0.5割が消えてしまいました。かなぴい。