動物倫理とはなにか ② 〜3つの主要な論点〜

 前回は動物倫理を考える上での起点となる人間と動物の差異を扱った。
 一般的に論じられるような、動物に対する人間の優越性がいかに曖昧なものかということがわかっていただけたと思う。ただ人間と動物の間に何らかの差異が横たわっているとしても、その差異を倫理的配慮の基準に本当にしていいのだろうか。
 当記事では主要な3つの基礎理論を紹介する。いずれも三者三様の独自の視点に立った新鮮なものなのでぜひ最後まで読んでいただきたい。


1 功利主義モデル (ベンサム、シンガーなど)


 功利主義とは、あるゆる行動の影響を受ける者の苦痛を最小化し快楽を最大化するべきという議論である。
 この理論の創始者として知られるベンサムは、功利主義の「快楽計算」の対象を動物にも適応した。彼は理性や言語能力ではなく、快楽や苦痛を感じる能力を重視した。ベンサムが18・19世紀の人間であることを考えれば、非常に進歩的な考え方の持ち主だったことがわかる。

彼の名前なしには動物倫理は語れまい。それがピーター・シンガーである。ピーター・シンガーはベンサムの理論を発展させたことで知られる。対象が苦しんでいるとき、その種類は重要ではない。どんな動物だろうとその苦痛を勘案しなくてはならない。

 ただ人間の誰かを殺すことと動物を殺すことは同じことではないと、シンガーは考える。人間は「生きたい」という選好を表象できるが、多くの動物はできない。彼は選好を明示できるものを優先させるという見解に立っている。
 またシンガーの理論では、死を含む苦痛が許容される事例がある。人間や動物が苦痛を味わうのはなるべく回避されるべきだが、苦痛が最大善に貢献する場合は許容される。
 シンガーは「動物倫理といえばこの人!」というような人物だが、実は彼の理論には賛否両論の意見が寄せられている。シンガーの選好功利主義は、動物実験の文脈で批判されることが多い。彼の理論上、実験で動物が味わう苦痛は甚大なものだがそれが人間の幸福量を増大させるなら倫理的に正しいことになる。また選好を表象できない人間(限界事例にあたる人々のこと、前記事を参照)はできる人間よりも道徳的に重要ではないのか。

2 生の主体モデル (レーガンなど)

 レーガンはあらゆる人間と動物は「生の主体」であるため、尊重されるべきという主張を行った。彼は、功利主義は実際に生きている人間や動物を単なる価値の器に貶めているとして批判した。
 彼によると、人間も動物も複雑さの程度はあれ、精神生活を送っており、生命は彼ら自身にとって大事なので価値がある。

 単純だが直観的で明快なレーガンの議論は、複雑な論理の迷宮から私たちを解放してくれるかもしれない。だが、知能の低い動物に本当に「精神生活」というべきものがあるのだろうか。もっといえば「精神生活」のない無意識状態の人間の患者は尊重されないのか。
 レーガンの理論はあらゆる動物に権利を認めるもので、彼の思想の支持者の一部はすべての動物利用に反対する活動を行っている。活動の中には極端なものもある。

3 フェミニストのケアの倫理モデル 

 最後に紹介するのは、「フェミニストのケアの倫理」モデルである。
 ケアの倫理は人間と動物の関係性に着目する。飼い主とペットのように信頼関係で結ばれている場合もあれば、家畜のような権力関係もある。
 そしてこの理論では動物に共感する行為を重要視する。動物の利害や彼らの味わう苦痛は私たち人間から離れたところにある。彼らの苦痛を取り払うためには彼らに共感する姿勢が求められる。
 動物は基本的に自身の感情を表現できない。そのため人間には動物たちとの関係を意識し、彼らの感情や利害に寄り添う必要があるというのだ。 


上記で紹介したほかにも動物倫理にはさまざまなアプローチがある。たとえばカントは動物には理性がないが彼らを虐待することは私たち人間の倫理性を傷つけてしまうとした。


 


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