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小野二郎、ウィリアム・モリス・・・

晶文社が二人のキーマンによって創業されている。中村勝哉と小野二郎。この二人は大学時代の同級生で、在学時からいつか二人で出版社を起こそうと話をしていたらしい。実際にそれが実現したのは、小野が卒業後、弘文社で編集修行を数年積んだ後のことだった。

二人の役割分担は明確で、中村が経営を、小野が出版企画・編集を受け持っている。その創業前後の話は、前回触れた世田谷美術館の展覧会カタログや他の文献でも詳しく触れられている。だからここでは繰り返さないが、一言だけ添えておきたいのは、小野という稀代の編集者の活動も、経営的な視点からの中村のしっかりとした「後方支援」がつねにあったからこそ可能になったに違いないということだ。

さて、小野二郎についてだが、私の脳裏にその名が刻まれたのは、正直に言うと、晶文社の本を読むようになってから随分後のことだ。まだ中学生や高校生だった一読者にとっては、目の前にある一冊一冊の本とその著者たちには深く魅せられたとしても、彼らの背後にいる編集者や出版社のことなどはまるで視界に入っていなかった。ジャズや映画の世界から晶文社の本に接近した私がすぐに覚えたのは、植草甚一、木島始、ナット・ヘントフ、高橋悠治、そして少し後になってヴァルター・ベンヤミンやスーザン・ソンタグといった名であって、小野二郎ではなかった。

その名がしだいにクッキリとした像を結び始めるのは、大学で美術史を学び、その過程でウィリアム・モリスのことを知り、そのモリスの研究者として小野のことを認識してからのことだ。

より決定的だったのは、大学を出て働き出してから聞かされた本好きの年長の友人の話だった。きっかけが何だったのか、今となっては思い出せないが、酒席でたまたま晶文社の話になり、小野の編集者および事業者としての存在の大きさについて滔々と蘊蓄を傾けられたのだった。思い返してみると、「出版」という営みが、おぼろげながら、なにか思想的な幅と厚みを持つものとして意識され出したのも、その頃からだったかもしれない。なにより、晶文社の活動は、出版物の集積という具体的な成果を持ってそのことを納得させてくれた。

小野は、どうやら出版という営みを、大げさに言えば「運動」のようなものとして捉えていたようだ。そしてその背後には、柔軟だが筋の通った Vision がある。そんな感触が次第に自分の中に生じてきた。そして、そうなってくると、小野のモリス研究が、単なる「研究」におさまらない広がりをもっていることが、ようやく見えてくるようになった。同時に、小野を通して読んでいくうちに、モリスの像もまた、私の中で変貌を遂げていった。アーツ・アンド・クラフツという運動を、たぶんに様式的あるいは趣味的な遊戯としか捉えられていなかった自分の読みの甘さにも気づかされることになった。いや、「趣味的」という概念そのものを考え直さなければならないことに目をひらかされたと言ったほうがいいかもしれない。

詳しくは山ほどある小野自身のモリス関連の文章を見ればわかることなので、私ごときが屋上屋を架すような愚を犯すべきではなのだけれど、ひとことで言えば、社会思想家(少し異端的なマルクス主義者)と芸術家としての仕事が安易な妥協を許さない緊張感を保って連携しつづけていたのが、モリスの仕事だったということ、そして小野は、そのような総合的な視点からモリスを捉えていて、その活動を現代的な形で受け継ごうとしていたことが、段々と分かってきたのだ。

もっとも、もともとモリスは、大内秀明氏の著作『ウィリアム・モリスのマルクス主義』(2012年)(写真を添付しておく)が明らかにしているように、どちらかというと、芸術家というよりは(であるとともに)社会思想家・活動家として日本に紹介された人で、その意味では小野の受けとめ方はきわめてまっとうで、むしろ、その後の日本でのモリス・イメージの変化(無毒化?)の方に問題があると言うべきなのかもしれない。

少なくとも70年代以後のモリスからは社会思想家、あるいはアクティビストとしての側面が大きく欠落してしまっていると感じるのは私ばかりではないと思う。美術史的な説明の多くは、その辺りのことについて触れはするけれども、いかにも通りいっぺんな記述に終始している。大内氏によれば、マルクスの資本論の内容が、概説的な形でだったとはいえ、初めて日本の紹介されたのが、モリスとE. B. バックスの共著『社会主義 —その成長および成果』の翻訳を通じてだったということや、モリスが、マルクスの三女エレノアと親交を結びつつ、十九世紀末のイギリスにおける社会主義運動の活性化に一役も二役も買っていたという事実は、今となっては、言及されることはまずないし、あったとしてもエピソード的に触れられるに過ぎない。

小野にとってモリスが特別な道標であり続けたことは、彼が書いた大量の文章によって明らかであり、それが周知の事実だったことは、亡くなった後に編まれた3巻にわたる著作集(写真を挿入しておく)の第1巻が「ウィリアムス・モリス研究」関係の文章に当てられていることでもわかる。のみならず、「書物の宇宙」と題された2巻、「ユートピアの構想」と題された3巻に収められた文章にも繰り返しモリスの名は出てくる。実際、私にとって、小野とモリスの思想をつなぐ鍵になると思われる文章のひとつは、2巻に収められている「趣味の思想化」という短文で、これを呼んだ時に、先にも触れたが、「趣味」という言葉をこのように、思想的機縁として扱うことができるのだという、いわば逆転の発想に随分と驚かされたものだ。

内容的には民芸運動をひとつの手がかりとして、視覚中心主義的で記号消費的な世界認識に対して、触覚を媒介にする多感覚的な世界とのかかわりを、否定的(批判的)な契機として捉えることが可能なのではないかという話だ。今読むと、定型化された主張という面もあるが、この文章が発表されたのが1979年、すなわち、すべてのシリアスなものがなし崩しに「趣味化」しつつある時代だった、つまりは「思想の趣味化」が不可逆的に進行している時だったことを想像しつつ読むと、違った意味が見えてくるだろう。

田中康夫の『なんとなく、クリスタル』が1980年、浅田彰の『構造と力』のベストセラー化が 1983年であったことを想起すれば、その頃の雰囲気は掴めるのではないだろうか。そういう「思想の趣味化」の流れに対して、「趣味の思想化」を唱える小野の発想は、よくあるシニカルな「ひらきなおり」とは程遠く、日常生活のあらゆる場面で私たちが直面せざるをえない「趣味問題」を(人はなにかを消費せずには生きていけないし、事物の選択において「趣味」が果たす役割は大きく、これを無いことにすることはできない)、具体的な変革の基盤として正面から見直そうというそう小野の提案には、大所高所から語られる政治的ヴィジョンなどが悉く空疎になってしまった状況の中で、なにか具体的なとっかかりになりそうな気がしたのだった。

やれやれ、この辺りのことを書き出すと、手が止まらなくなる。すでに長くなってしまったので、今日はここで一時中断することにしよう。まだ、石蹴りのようにして話の穂をつないでいくつもりだ。





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