ジャズの日々(3): 奄美のひと
音楽館はそれほど有名だったわけではない。
渋谷には当時、ジニアス、スイング、デュエット、そしてブレイキーといった「主役級」が集中していて、音楽館は、コアなジャズファンたちの脳内地図の上では「脇役」に近い存在だったと思う。ロック喫茶として名を馳せたブラックホークが真下の一階にあったこともその存在感を薄める効果を発揮していたかもしれない。
マスターも、実はそれほどジャズに詳しい人ではなかった。ブラックホークがガンガンとレコードをかけるので、とても静かな喫茶店など2階ではやってられず、半ば諦めから、半ばは対抗意識からジャズ喫茶を始めたのだと、漏らしてくれたことがあった。
当時彼は70歳前後だった、と思う。
小柄だが眼光の鋭い人で、いつも何かに腹を立てているような印象の人だった。実際、僕には彼の笑った顔を見た記憶がない。時折聞かされた断片的な身の上話によれば、奄美の出身で、上京してからはずいぶんと苦労をされたようだった。
前回書いたように、彼は閉店間際に店に来るだけで、あとはバイトの若者たち、それから時々店に顔を出す娘さんに大体のことは任せていた。
おかげで僕も、カウンターの中に入ってからは、日々かけるレコードを好きなように選べた。それどころか、月に一度の新譜購入もときどき任されるようになっていた。そうやって、その時々のバイトが買い集めていくものだから、自ずから店の「色」は定まらないままだった。
今から思うと、僕も、当時の自分の趣味そのままに随分と偏ったかけ方や買い方をしたもんだと、少し頬が赤らむ。なにしろ当時は、お定りのコースで、ハードバップからモード、フリージャズ周辺ばかりを聴いていて、たとえば、エリントンの凄みとか、シナトラの歌の厚みとかにまったく耳がひらかれていなかった。
ビリー・ホリデーの偉大さを語るのは容易だったけど(賛意を得られることがあらかじめわかっているので)、当時は、なにかと深刻ぶることを好む未熟の中にいて、エラ・フィッツジェラルドの脅威的なピッチの正確さとリズムの感覚など、技術偏重だとか言って軽く見たりしていたものだ。
思えば、ミンガスのビッグバンドの重層的な絢爛も今ひとつ感じとれていなかったのは、(ミンガスが私淑していた)エリントンの、まさに天才という他ないオーケストレーションの豊穣に気づいていなかったことと表裏一体だ(ちなみに、この頃僕は、『直立猿人』が圧倒的なミンガスのベストアルバムだと思っていたけれど、時間を経た今、そんなことを強弁していた自分に少し腹を立てたくもなる。あの少人数のグループでさえオーケストラのように響かせていたミンガスが、もっと大きな編成で作ったらどうなるのか、そこになぜ気づかなかったんだろう)。
それはさておき、「脇役」だった音楽館だが、それだけに、いかにもジャズ通というのではない、一風変わったお客さんたちがいたことを懐かしく思い出す。
オールバックに髪を固めて、決まって茶系のスーツを纏い、レモンティーを頼むヤクザ風のお兄さん。必ず若い女性を2人以上連れて遅い時間に現れて、ビールを飲む黒人の牧師さん。
前回触れたモンゴメリーおじさんもその中のひとりだ。この人は、ウェスのレコードを聴きながら、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった渡辺香津美を腐すのがルーティーンだった。店内では大きな声でしゃべれないものだから、わざわざカウンターにまで来て、ヒソヒソとひとくだり「ウェス話」をして帰る。
そんなお馴染みさんの中に、ひとりの女性がいた。彼女が毎日のように来ていたのは僕が働いていた年の秋から冬にかけてのことで、いつもジーンズに黒いセーターを着て、長いストレートの髪を胸の辺りまでたらし、額をすべて隠す前髪の下から、大きく光る漆黒の目を輝かしていた。その長い髪の印象から僕は、ひそかに彼女のことを「黒髪さん」と呼んでいた。
いつも店の奥隅の席に座り、無表情に「ブラック」を頼んだ後は、足と腕を組んで目を瞑り、ひたすら音楽に集中する。そして、しばらくすると、カウンターの方にやってきてリクエストをする。
それが、毎日同じレコード、いや正確に言えば、日替わりで二枚のレコードを交互にリクエストするのだ。一枚はコルトレーンの『パリ・コンサート』、もう一枚は、キース・ジャレットの『ステアケース』。そして、どちらがかかっても彼女は、文字通り身じろぎもせずに音に没入する。それがしばらくのあいだ続いたものだから、忘れようにも忘れられない。
どうしてその2枚だったのかは今も分からない。コルトレーンならば、他にもパリ・コンサートに勝るとも劣らないアルバムが多々ある。録音も今ひとつだし。キースのソロならば、すでに『ケルン・コンサート』も『サンベア』もあったが、それらをリクエストすることは一度もなかった。
なにかの理由があってその2枚だったのだと思うのだが、近寄りがたい雰囲気を発していた彼女に声をかけられるわけもなく、結局分からずじまいだった。そのおかげで、僕自身も、あまりにも甘美な『ケルン・コンサート』より、硬質で透明な水晶を思わせる『ステアケース』の方により深く惹かれるようになったという「ご利益」はあったものの、なぜああも、あの二枚にだけ固執していたのか、再会が可能ならば尋ねてみたい謎だ。
その黒髪さんが、突然ある日からパタリと店に現れなくなった。このことには謎はない。理由ははっきりしている。
前日、遅い時間に店に現れて、ひとしきりコルトレーン・カルテットの音を浴びたあと、彼女は、会計口でマスターと対峙した。その時マスターが、何を思ったのか、「あんた奄美の人だろ」と声をかけたのだ。
彼女は、一瞬たじろいで、曖昧にうなづいただけで、何も言葉を返さずに、そのまま狭いドアを開け、階段を降りていった。踊り場の上についている小さな反射鏡を通じて僕は、マスターの肩越しに、彼女が降りていく姿を見ていたが、心なしかいつもより早足で駆け降りた気がしたものだ。
カウンターの中にいると、会計口で喋るマスターの声がよく聞こえる。大音量で鳴っているレコードの音に負けまいと大声を発するからだ。
彼女が去った後、彼は僕にこういった。
「わかるんだよ。あの子は奄美の出身だって。あの顔の感じ、特に目の感じで。親御さんの代でこっちに来たのかもしれないけど、田舎はぜったい奄美だよ」と。話を聞いていると、どうやらつい懐かしくなってしまって声をかけたらしい。本人は親しげに声をかけたつもりのようだったが、笑った顔を持たない彼にいきなり出身地を誰何されては、彼女も口ごもる他なかったろう。そして、そのことを尋ねられるのは、彼女にとって気持ちのいいことではなかったようだ。
結局、階段を降りていく後ろ姿の反射像が、僕が彼女を見た最後になった。奄美で何かがあったのか、それとも、ただ無神経に出身地を問いただすマスターが嫌だったのか、それとも、もしかしたら他に理由があったのか、今となっては確かめようもないが、僕の網膜の片隅にはまだ彼女の残像がゆらめいていて、コルトレーンの『パリ・コンサート』とかキース・ジャレットの『ステアケース』を耳にしたり、音ではなくそのアルバム名を目にしたりしても、反射的に彼女のことを思い出してしまう。
今、どこで何をしているのか。いまだにあの二枚は彼女の愛聴盤なのか、答えのない問いは、当時の音楽館のタバコの煙が充満する空間の記憶とともに、靄のように脳内に漂ったままだ。