【ショートショート】業

 さまざまな人で混み合う電車のなか、目の前に立っている人が妊婦マークを付けていた。妊娠初期なのかスリムな体型だから、マークがなければ気が付かなかった。
 《おなかに赤ちゃんがいます》マークを見て咄嗟に立ち上がれる人は健康であることにくわえて、脳に親切だとか気遣いが組み込まれているんだと思う。私はそうではないから、触っていたスマホを鞄に仕舞い、姿勢を正して頭の中で「よろしければどうぞ」を数回練習してから、慎重に腰を浮かせる。
「よ、よろしければ、どうぞ」
 妊婦は「すみません」と言ってゆっくりと座った。私は彼女から少し離れた反対側のポジションに移動し、つり革につかまって電車の揺れに身を任せた。
 しばらくして会社の最寄駅に着いた。人の波をかきわけて電車を降りる。降りた電車の窓から妊婦と目が合う。ぺこりと頭を下げられたので、私も頷き程度の会釈を返す。

「網島、今度はなに作ってるの」
 振り向くと、同僚のやまちゃんが私のパソコンを覗き込んでいた。
「次のコンペに出すデザイン。ランチタイム返上しないと間に合わなくって」
 私たちが勤めるデザイン会社は少数精鋭だ。5人の社員全員が別々の案件を抱えていて、私は主に文房具会社のホームページのデザインを担当している。その傍ら、今はデザインコンペに応募する作品をつくっている最中だった。
「腹痛ですマーク、風邪引いてますマーク、花粉症ですマーク…なにこれ?」
 やまちゃんは私が触っていたマウスを奪い、カチカチと勝手に操作してデザインを物色した。
「今日さ、電車で妊婦マーク付けてた人に席譲ったの。なんだけど私、生理2日目で超お腹痛かったんだよね。妊婦さんに席譲ったのは全然いいんだよ、向こうのほうがレベチでしんどいだろうし。でも妊婦マークがあるなら、他の人もいろいろ辛いこと、主張していいと思ったんだよね」
 やまちゃんはなるほどねと言いながら、他のファイルをどんどん開く。
「なにこれ、打撲しましたマークって」
「怪我したときって絶対座ってたいじゃん」
「いやいや、言うなら骨折とかでしょ。打撲って中途半端すぎ」
「やまちゃんは打撲舐めてる。マジでしんどいんだから」
 私は数か月前、人生で初めて打撲をした。想像を絶する痛さだった。骨折はまだしたことがない。
 他にも、やまちゃんは疲れてますマークや残業でしたマークに一通りつっこんで、「まあ検討を祈るよ」と言って仕事に戻った。

 私はその後一週間、終業後も会社に残ってデザインを練った。結局、作った中から厳選して《腹痛ですマーク》《打撲しましたマーク》《残業でしたマーク》をコンペに出展した。《残業でしたマーク》はここ最近の22時退勤がだいぶ堪えていたので、迷わず選んだ。
 結果、コンペでは惨敗だった。ジョークを織り交ぜた渾身のプレゼンで審査員全員の相好を崩すことができたが、それが災いして真剣な思いを込めた作品だということが伝わらなかったらしい。会場まで見に来てくれたやまちゃんは、私の肩を叩いてドンマイと言った。  
 審査結果を見た途端どっと疲れが出たのに、帰りの電車では座れなかった。結婚式帰りの若い女たちが目の前を席を占領していた。

 数か月後、コンペに出した作品に加え、《打撲しましたマーク》と《眠いですマーク》の5つを商品化にこぎつけることができた。取引先である文房具会社がコンペの件を人づてに聞いたらしい。おもしろそうな取り組みだと、わざわざ会社に赴いて話を聞いてくれ、とんとん拍子でマークの発売に至った。
 発売日、さっそく店頭でマークを見つけた人が、「待ってこれ天才すぎる」という文言とともに《残業でしたマーク》の写真をSNSに投稿して大バズりした。
 その日のうちにネットでは有名になり、発起人である私には取材が殺到した。ユニークかつ得に若者の支持を得る商品だと、私が所属する会社にも仕事の依頼が次々と舞い込む事態になった。もちろんネガティブな意見もあったようだけれど、色々な賞と仕事を手に入れた私の耳にはあまり入って来なかった。
 その後も色々なマークを追加でデザイン・販売し、そのどれもが飛ぶように売れた。そのほとんどがSNSでバズった。というか、買う人の目的がバズることにあったようだ。私もそのニーズに合わせて、話題になりそうなマークを量産した。
 給料は倍増した。忙しさのあまり、タクシーで通勤・帰宅する日々になった。小さな雑貨屋やアクセサリーショップの案件しか抱えていなかったやまちゃんも、色々な仕事でてんてこ舞いになっていた。

 仕事が落ちついてきたある日の朝、私は久しぶりに駅に向かった。体はバキバキで頭も疲れ切っているので、《疲れていますマーク》を鞄に着けて家を出た。シンプルだが最近発売した新商品だ。
 駅のホームで周りを見渡してみると、小さい子どもからお年寄りまでが色々なマークを付けている。
 電車に乗ると相変わらずの混雑で、つり革につかまれるのがラッキーだった。目の前に座っている人は《打撲です》マークを付けている。見るからに健康そうに見えたけれど、真偽は確かめようがない。その隣の女の人は《家でペットが待っています》マークを付けている。これはSNSでいちばん話題になったマークだ。ウケ狙いで作ったものだけれど、いまこの状況で、私はまったく笑えない。
 その隣の人は《映画を観に行きます》マーク、さらに隣の人は《このあとデートです》マークを付けている。私は立ち眩みをなんとか堪えて、必死につり革につかまった。
 電車のドアが開く。あの朝みたいに、妊婦マークをバッグに付けた女性が乗ってきた。私の隣に立つ。彼女はさっきの私のように、座っている人のマークをひとつひとつ確認して、ため息を吐いた。妊婦マークが力なく揺れる。私はいたたまれなくなり、俯いた。しばらくしてまた電車のドアが開く。会社の最寄り駅はまだ先だけれど、反射的に電車を降りた。

 しばらくして、私は会社と、デザインをやめた。

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