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おさんぽ

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 4月25日


 やっと、雨が上がったんだ。このところ最近ずっと降り続けていたから、自室の六畳間いっぱいに晴れを見たときはつい嬉しくなった。

 外に出よう。服を選んで、リュックサックに荷物を詰めて。どこに行くわけでもなくても、ただそれでいいから。


 ひんやりとした玄関のドアを開ける。
 四月の初めには満開だった桜はもう散って、肌をひりひりと刺すような夏の日差しが五月の到来を告げていた。
 (……こりゃ日焼け止めが要るな)

 歩いているだけで虫が顔に貼りついてくる。うっかり食べないように口を一文字に閉じて下を向く。夏が近づいている。ほんの少し前まで暖かいと寒いとを繰り返していた春の日々が、あっけなく終わってしまうような。いや、まだ終わらないだろうけど。

 ………そのとき私は、冬の指先が凍てつくような寒さを、もう忘れていることに気が付いた。秋のちょっと肌寒い日の風もとうに覚えていない。そういえば、あれだけ嫌だった大学受験の日々も。
 春の桜も、柔い若葉の青さも、数ヶ月後には忘れているのだろうか。季節は永遠にあるというものでもないし、繰り返すうちに少しずつ変わっていく。地球温暖化だの、異常気象だので、私たちの知っている四季は、変化していくに違いない。100年後、200年後の人々は、今のような四季の美しさを生涯知らないで死んでいくのだろうか。
 季節は無限ではない、常に、忘れられていくものなんだ。大きくいえば、そうだ、この人生すら………。
 そのなかで人は何を思い、どんなふうに生きていくのだろうか。


↑公式じゃなくてすみません。このちょっとしたお出かけのプロローグに合ってたんで、共有させていただきます。弾むピアノの音が春の涼しい風のようで、そこが好きです。



 2020年。中2の二月末にコロナで学校がなくなって、それから六月まで家に引き篭もって受験勉強をしていた。ただ作業的に知識を入れ、沢山演習をする。勉強自体は苦ではなかったし、みんなが出来ないことが自分に出来るというのは、己の存在意義を認めてもらえたような気がして嬉しかった。


 そんな調子で気づけば四か月間も外出しなかった。緊急事態宣言発令で街からは人が消え、真面目で素直だった自分がそんな中ひとり外で何かするわけでもなく、ひたすら基礎を固め、勉強ばかりしていた。

 中3になって初めての登校日──久しぶりの制服に身を包んで、友達との再会にそわそわしながら外にでた──あの時の、六月の風の温度。むせかえる雨のにおい。二月時点では生き物の気配すら感じなかった森を、ああ、本当はこんなに騒がしいものだったなあと思い出したときのあの胸のざわめき。若葉をいっぱいに纏った樹木、つがいで舞う蝶、生い茂った背の高い草花。それらが確実な時間の経過を私に知らしめさせた。
 そしてその時なぜか、ふと世界に自分だけが置いて行かれたかのような、心にぽっかり穴が空いたような虚しさを覚えた。


 私がやれ何時間勉強しただの、模試の偏差値がどうだのという瑣末なことに延々囚われいる間に、虫や花は、生まれ、大人になり、恋をし、子孫を残し、死んでゆくという生き死にのサイクルを何度も何度も繰り返している。
 ライバルを蹴落として上に上がるような熾烈な受験戦争。お金のため、いい暮らしをするため、そのために詰め込んで暗記して勉強をすることがほんとうの幸せなのか?人間の地位や名声の、なんとちっぽけなことだろう。その浅ましさ、愚かさ。知らないところで季節は移り変わり、知らないところでたくさんのいのちが芽生え、消えていく。多くの生き物は人間よりもはるかに短い間しか生きられないにも関わらず、これほどまでに尊い。
 なにか私は間違っている、なぜ人は他の生きもののように生きられない、与えられた生をまっとうするとは一体何を持ってそうだと言えるのだろう?

 そう思索を巡らせていたら涙が止まらなくなったなあと、たった今思いだした。
 そんなこと考えてたって人生はなんにも上手くいきやしないのにさ。分かってる、分かってるよ。あんまり考えすぎない方が幸せになれるって。でもね。

あの雲のどれかひとつに乗って、どこまでも遠くへいきたい。


 歩いていると、2時間くらいでもう足が疲れてきた。どんだけ運動してないんだ、ばか。

 集合住宅の中にお邪魔して、涼しい木陰を歩く。
 疲れた、座ろう。……ん?

今年初のトカゲ。
胴体に対しての手足の小ささがもう最高。
片方は雌?卵持ってるのかな、お腹がぽてっとしてた


 トカゲがいる。そうか、もうそんな季節になったか。
 私はじっと奴らを見る。……触りたい。でも触らしてくんないだろうなぁ。
 近づきすぎないように、ベンチに座って、おにぎりを食べる。



もぐもぐ。もぐもぐ。ごっくん。うまいうまい。



 ………これ、実質一緒にご飯行ったんで、もう友達ってことでいいよね?
 トカゲは同じところをくるくると回っている。困ってるのかな?興味本位で、すっと手を伸ばす。


 やっぱ逃げられた。

まだ落ちてた


 トカゲちゃんの近くに桜の花弁が落ちてたから拾って、この手から零れ落ちないように優しく握った。


 ただ歩く。歩く。

ここに桜が咲いていたという名残。私は木を見ただけでこれが何の木なのか判別できないたちなので、落ちた花びらが無くなれば、ここに桜の木があったこともきっと忘れてしまうのだろう。
さっきのとは違う種類のやつ


 手の中の花弁がひとひらずつ風に攫われていく。気づけば半分くらい無くなっていた。あれれ。しょうがないので花二つを桜の木の枝の間に差した。二つとも風で飛んでった。あれれ。


 花はもう終わる、春も後二月もすれば跡形もなくなる。
 季節も、いのちも、永遠に見えて儚く、変わらないものは何ひとつとしてない。だんだん日が傾いてきている。今日も、少しずつ終わっていくのか。

変わっていくその一瞬を写すことが出来るのなら


 冬の灰のような白い空は瞼の裏側に焼き付くような青へ、柔く優しい陽の光は痛く刺すようなものに変わっていく。

 夏が来るのがこわい。夏至が近づくにつれ、光と影のコントラストが大きくなっていって、ダメな自分、陰鬱な自分がぼんやりと否定されているような感じがするから。そうやって憂鬱をくっきりと描きだして、そのまま底の知れない暗い闇の方へ呑み込んでいってしまうようなような怖さがあるから。そして梅雨が明けた後のあの夏の光が私には眩しすぎて、その下を生きていかれないような気さえするから。
 まぁそれは、私の鬱が本格化したのが夏の只中で、この恐怖の念はそのトラウマの名残でしかないのだけれど。


 さて、帰りますか。

唐突な公園。
子供は誰もいない。


陽が傾いてきたなぁ。

入ってすぐ右のとこの草むら。
カサカサって音したんだよ、絶対なんか居たよね??結構デカいやついたよね?!って思ったけど探しても何もいませんでした。ちゃんちゃん。


 こいつは公園から入って左手のベンチと自然の天蓋。なんかいい雰囲気。小学生の時にここに来たことが一度あるんだけど、その時はこんなに葉っぱがもじゃもじゃしてなかったから、上の方に登って遊んでる子がいたなぁ。私は運動音痴だったからそんなこと出来やしなかったけど、一度だけでも登ってみたかったなぁ。

ベンチからの眺め。涼しい。木漏れ日が眩しい。
幹のうねり方が好き。


 更に奥の方へ進んで、ぶらんこに乗った。こんなこと、公園に他に子供がいたら出来ないからね。
 地面を思い切り蹴って、漕ぐ。ぶわっと体が宙に浮いて、また戻って。力強く漕げば漕ぐほど、私が空に近づいていく。空とひとつになっていく。
 なんだか懐かしくなって、喉の奥がほんのり熱くなった。唾を飲み込んで、泣きそうになるのを堪える。

 さっきもう夏が来るんじゃないかなんて言ったけれど、こうやってぶらんこを揺らした時に頬を撫でる風が生温かくないのは、まだ大丈夫だって証拠だ。
 私がせっかちすぎただけなんだ。平気だ。大丈夫、夏はまだ来ない。

 どうしようもない過去を思い出してしまうのも、その癖子供時代に帰りたくなるのも、ぜんぶ私が気にしすぎるせいなんだ。いちいち辛いことが脳裏を掠めてしまうから。ほんとはそんなに大したことじゃないのに、無駄に苦しんで、もっとずっと大切なことに気づけない。



 深く息を吸って、吐いて、心を落ち着かせる。

紫色の小さな花が咲いている。名前はまだ知らない。
画面中央、蟻が二匹、蝶が蛾か何かの死骸を運んでいる。力もち。
この子たちの何処にそんな力が溢れているんだろう、不思議だ。


 途中で運ぶのに苦戦してたから落ち葉を退けて道を作ったら、途端にてんでんばらばらになってどっか行っちゃった。すごい余計なことをしてしまった。ごめんなさい。

葉っぱが巻き付いた木。光の当たり具合が素敵でお気に入り。

 この木と蔓は、何年の時を共に生きているんだろうか。
 蔓はなにかに絡まりながら成長する。いつの日か、枝葉を覆いつくすほどに大きくなった蔓のせいで、木は生きるのに必要な光合成が出来なくなり、少しずつ弱っていって最終的には枯れてしまう事があるのだと聞いたことがあった。この木、平気かな。何年後かには、もっとこの蔓大きくなってるよね。…でも私が勝手に蔓を切るわけにいかないしな。

 「……そこで斜陽に照らされている綺麗な貴方、息苦しくはないですか。勝手に絡み付いてきてその体を蝕む蔓が、憎くはないのですか。

 ………え?この子は僕なしじゃあ生きていかれないからって?………そんな、……………そうですか、そうですか。
 ……………生きとし生けるものは、いったいなんのために生きるのでしょうか。」


 そう問うと木は、風でさわさわと葉を揺らした。耳触りの良い音が響く。それはまるで慰めの言葉のようで、私はまた喉の奥が熱くなるのを感じた。

カメムシチャンがいます。ひょっこりはん。

 その木の揺れる葉を見上げていると、カメムシチャンがこっちを覗いているのに気がついた。(写真二枚目の、画面中央)緑色の体が葉の色に擬態して気づきにくい。

 もう泣いたりしないから、大丈夫だよ。君もここで生きているんでしょう、私もこの世界で生きていくよ。
 蔓が絡まった木とカメムシチャンにさようならを告げた。歩く。膝が痛い。え、こんなちょっと歩いただけで私筋肉痛になんの?筋トレ始めようかな。

 家の近くの林は行きとは陽のあたる角度が変わっていて、今までの時間の経過を改めて知った。影が光を引き立てる。
 この場所は秋の夕焼けが一番綺麗に輝くんだよね。日が短いから4時半位に向こうから西日が差し込んできて、紅葉した葉が太陽の光に透けていろんな色に輝いてるの。あれ、意外と覚えてるもんだね。過ぎ去った季節のこと。

この時期にしか見られない若葉。
神様から命を貰ったばかりの、輝くばかりの青。
こちらはずっと口を開けて歩いてる烏。なんかちょっと間抜け。
去年落ちたどんぐり。ここから芽吹いたいのちがあるんだろうか。


 帰宅。お散歩終わり。なかなか家から出ない所為で、出た時の感情の爆発がデカい。これ結構ストレスになるんだけど、家にずっといるのも気が狂いそうになるから、まぁしょうがない。ほどほどにね。
 すっかり暗くなった室内で、詩集を眺める。

最果タヒさんの、「夜空はいつでも最高密度の青色だ」。タイトルで即買い。


 季節、それを生きる生命、人間、自然、人生。一見関係なく見えるこれらは、実はひとつに繋がっていると思う。最初のほうで、季節が変わっていってしまうとか、生き物の生命のサイクルに圧倒されたとかいう話をしたね。季節も生き物も、こっちが知らないところで、人間とは別の世界で回っている。それに人間側は自分たちの人生の忙しさで精いっぱいで気づけない。
 小学生の頃は、私も世界が自分と森と、自然とひとつだと思っていたんだ。夏は蚊に刺されまくってもバッタやカブトムシを捕まえにいったし、秋になると落ち葉の布団に寝転がって空を見上げたり、冬はトレーナー一枚、下はパンツだけで雪遊びをしたんだ。でもいつの間にか、人間の社会のほうに染まっていって、どこか窮屈に感じてはいても、それを違和感とも思わないほどになっていった。
 中学生になって、虫を触れなくなっていた時はびっくりした。もの凄く大きな何かが両者を隔絶してるような、嫌悪感すら感じた。まるでずっと仲良しだったのに、久しぶりに会ってみたらなんか気まずい親友、みたいな。ショックだった。いつのまにか自分は人間になっていたんだ。生き物という大きなくくりの一つではなく、人間に。

 成人した今になると、そんなことはもう当たり前で、むしろ自然と共に生きる方が無理だろうと思うようになった。おとなになると、公園で木に登ったり、花を摘んでるだけで最悪不審者扱いされる。無邪気に遊んでいられる特権はもう期限切れ。何しろ、自然のなかを悠長に生きていられるほど社会は甘くない。働かなければ生きていられないからだ。自給自足とか、そんな夢のようなことは実質できやしない。働かなければならない。



 ほんとは全部捨てて、逃げ出したい。


 この散歩だって一種の逃避行のようなものだ。変わりゆく季節も、時間も、変わらない自分を待ってはくれないから、一生懸命追いつこうとしがみついているだけ。大切なことを忘れないように、思い出しているだけ。

 それでもただ、一瞬だけでいいから、人間の醜さなんか忘れて、心から感動していたいだけなんだ。


 なんだか虚しいけどね。


 でもまあ、色々あったけど、いい一日でした。

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