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助詞と女子に注意したい

日本語の助詞はたった一字であるのにそれこそ微妙なニュアンスを見事に表すものである。例えば俳句をやる人は17音しかない中で助詞ひとつにも相当に気を使うと言う。

先日、嵐の櫻井君と相葉君が結婚というニュースがあって、えっそれって櫻井君と相葉君、二人が結婚したの?と一瞬思った方がいるかもしれない。

部活の練習中に雨が降り出したため、最後に風邪をひかないよう、頭を良く拭くようにと言ったところ、髪を拭くではないかと生徒に怪訝な顔をされたが、場所と対象の違いであって、誤りではないはずだ。

学校へ行くとも言い、学校に行くとも言う。どちらも正しい日本語だが、池上彰氏の書いた本によると、学校へ行くは学校(の建物)へ行くというニュアンスを感じさせ、学校に行くは学校に(勉強に)行くという印象になり、学校に授業を受けに行くのに対して、学校へ行くは例えば帰宅した後、校庭で遊ぶために出かけたりする時に使うと書いている。
なるほど、ああ、そうすると僕は明らかに、学校にではなく、学校へ行っているのであると、何だかしみじみと思ってみたりしてしまうのであるが、平仮名ひとつでずいぶんとイメージが変わるものなのだと実感する。

もっと微妙なのが「は」と「が」の違いであって、例えば
昼寝をしている
昼寝をしている
は同じようでもあるし、また違うようでもある。どこかが違うと思っても、その違いをうまく言い表すことが出来ない。何とももどかしい。それでも専門家というのはたいしたもので、その筋の人はちゃんと説明してくれている。

それによると、「が」は自分の話している相手がまだそのことに気づいていないときに使い、「は」は相手もそのことに気づいた後に使うのだそうである。金田一春彦氏は『日本語 新版』の中で、
英語で初めには名詞に不定冠詞の a をつける。
→There is a bird.
次には定冠詞の the を使う。
→The bird is a parakeet.
これと同じであり、子供に昔話をする場合、
昔々、あるところにおじいさんがいました。そのおじいさんは・・
と言うのと同じ理屈だと説明されている。
大変わかりやすい。思わず「なるほど」と思ってしまうわけで、ひらがなひとつに侮れない深みを感じてみるわけである。
(注→「は」と「が」の違いについて金田一春彦氏の文章を引用したが、この考え方は大野晋氏の考え方を受けている。また、「は」と「が」の違いについてはいろいろな考え方がある。)


ところで全くくだらないことなのだが、僕はふとカミさんと遊ぶカミさんで遊ぶとの違いについて思いついてみたりしたのである。すでにカミさんと遊ぼうという気力は萎えているが、子供がまだ小さかった頃、カミさんで遊ぶと意外におもしろいということを息子と二人で発見した。

洗い物をしているとき後ろからそっと寄って行き、両の人差し指でわき腹をチョンと突っついてやる。一瞬ウッとうめくのだが、手に皿だの茶碗だのを持っているので反撃できない。立て続けにわき腹を攻めると足で反撃してくるが、構わずに攻撃を続けると、洗い物を置き向き直って反撃に出てくる。そこをつかまえて体落としをかけ押さえ込みに入る。

息子も加担してカミさんを背後からくすぐりにかかる。逃げようとするのをつかまえて、さらにくすぐり攻撃を仕掛ける。カミさんが喜んだことは涙を流したほどである。時には、寝ているところを足の裏をくすぐりにかかり、時には足の裏にボールペンでゾウさんの絵を書いたりもした。
かわいそうな奥さん!と同情し、DVか疑われる方がおられるかもしれないが、これらは一種のコミュニケーションであって(恐らく)同情には当たらない。

ただ、少し困ったことがある。どうもカミさんで遊ぶ感覚が習慣化してしまい、それが他の女性に対して「ふっ」と出てしまいそうになる時がある。習慣化したものはほとんど無意識に現れる。後ろ姿がまずい。背中を向けられると、ついわき腹をくすぐりたくなってしまう。そんなことをしたらセクハラで訴えられるに決まっている。チカンという不名誉なレッテルを一生貼られ、クビになり、退職金もパーとなり、飢えて死骸を道端にさらすことになるに違いない・・。

このあいだも流しでカップを洗っている女性の同僚がいて、思わず両の人差し指がムズムスするのを、ふと我に返って思いとどまったのである。甚だ「キケン」である。

助詞と女子には注意したい・・というつまらぬオヤジギャグで締めくくりたい。 

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