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第28話:正座

これも愚話にすぎない。

日本には「正座」という文化?があって、いかにも「正しい座」としての地位に君臨している感がある。それは確かにそうではあるのだろうが、高校生時分までの僕らにとっては、悪いことをした「罰」として「正しさを強制させられる」苦い苦い思い出の位置に君臨していたような気がする。

正座の効用について寺の住職をしていた高校時代の倫理の先生に聞いてみたところ、彼は実際に机の上に座ってみせて「背筋が伸びるから消化器系に非常に良い」と腹をたたきながら教えてくれた。
随分と説得力のある強引な話し方だったので僕は一応その場は納得した振りをしたし、一部に言われている精神の修養や禅的な自己との対話という観方も分からないではなかった。

しかし、それらはどうにも出来ないあの痛さを上回るメリットとは思えなかった。家ではオバアチャンがいつでも正座をしており、子供心にオバアチャンの足はどうなっているんだろうとしげしげと見詰めてみたこともあった。

さて、正座のメリットが甚だ不確かである反面、その難点は甚だ具体的である。勿論、正座の最大の難点はあのジリジリと募って来る痛みにあるのだが、それに勝るとも劣らない苦しみに正座が終わった後のあのビリビリがある。

足の感覚を失って思わぬ失態を演じてしまうこともある。通夜や葬式でお経や弔辞を長々と聞いた後で御焼香に立つ時に、いい大人がバタンと転がって公衆の面前で冷や汗をかいている姿を目にしたりする。
葬式では見ている方もやっている方も笑うに笑えない。その微妙さが余計におもしろかったりするわけだが。

ウチのカミさんも子供にオッパイをやっていてよく痺れをきらした。そういう時、彼女はじっとそれに耐えながら僕にそれを知られまいと必死になっているのだが、よせばいいのに目で僕に「さわるなよ」と訴えているのである。
すかさずその気配を感じ取った僕が身を乗り出すと、「やめて」と彼女もすかさず反応する。“嫌い嫌いは好きのうち”という言葉もあるが、「やめて」が基本的に「OK」を意味するという人間心理の機微に通じている僕は彼女の足にちょんとさわってあげると、彼女はうづくまってウエーンと泣きながら喜んでいる。
これは実におもしろかった。こんな楽しいことは他にない。

この楽しみを確保しておくためにカミさんには絶対教えないのだが、この正座のビリビリを防ぐ方法がある。つま先を合わせるだとかひざを少し開くだとか世間ではいろいろな方法が言われているようだが、いろいろ実験してみたところどれも当てにならない。これはこれをマスターしておけばまず間違いないという良法である。

まず正座で足の感覚が麻痺状態になったら手を軽く前について尻を浮かせる。足に血の流れが戻ってビリビリして来るからビリビリし始めたところで痛いのを我慢してもう一度しっかり座り直す。そうするとまた血の流れが止まってビリビリが収まり始めるから、その瞬間を逃さずにサッと立ち上がるのである。
そうすれば痺れることもなく、そのまま普通に歩けるし、走ることだって可能である。嘘だとお思いになるかもしれないが一度ぜひやってみていただきたい。成功疑いなしである。

ただこの方法に全く問題がないわけではない。

もう何十年も前、クラスの生徒が問題を起こし家庭待機になったため家庭訪問に赴いた。お母さんとだいぶ長くお話をしたのだが、この種の家庭訪問というのは言いにくいことも言わなければならず雰囲気も硬いものになりがちなわけで、まだ若かった僕としては年配の保護者に対して当然正座でのお話ということになる。

お母さんは「どうぞお膝をくずして下さい」と言ってくれるのだが、お母さんが正座をしているのに僕だけあぐらというわけにもいかず、また例の方法にいたって自信を持っていた僕は、どうにかなるさと思い、「結構です」と言ってそのまま正座をしていた。

さて話も終わりに近付き頃を見計らって例の方法を試み、それではと言って立ち上がろうとしたとき、「あのー」とお母さんが再び話を切り出した。
「まずい」と思ったが、そんな個人的な事情でお母さんの話を振り切って帰るわけにも行かない。15分ほど更にお話をし、いよいよそれでは、ということになったのだが、まずいことに足は痺れ切っていて既に感覚がない。もう少し話を延ばして例の方法を試みる時間稼ぎをするというわけにもいかない。

仕方なく立ち上がったその瞬間、予期したとおりその場にゴテンと転がった。「大丈夫ですか」とお母さんが尋ねるので「大丈夫です」と答えて、またひと足踏み出すと惨めにもまたゴテンと転がった。
その場にとどまっているわけにもいかず、玄関まで這って行き、ビリビリして来る足に強引に靴を履かせ立ち上がろうとして、またヨロメイた。幸い今度は壁が僕を助けてくれたが、玄関を出て車に寄り掛かりながら必死で痺れを堪えなければならなかったのである。
それにしてもお母さんは何と思っただろうか。まことに情けない限りである。

世の中に完璧なる方法はなく、また完全なる人生もない。これは人生は数限りない落とし穴の連続であるという有り難いお話である。

(土竜のひとりごと:第28話)

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