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第187話:語呂合わせ

*申し訳ありませんが、これは多分、古典を勉強している高校生にしかわからない話だと思います。


今に始まったことではないが、記憶が怪しい。
古いことは勿論だが、新しいことはほとんど入らない。さらに瞬間的に覚えること自体の力も衰退して来て、何かをしようと思って立ち上がると、もう何をしようとしたかの記憶がない。
Yahooにログインするのに、パスワードから確認コードがSMSに送られてくる形にしたのだが、スマホに送られてくる6桁の数字を確認して、パソコンのログイン画面に目を移すと、もう忘れている。

似たような例は枚挙にいとまない。漢和辞典を引くのに索引でページを確認し、そのページに移ろうとするとページ数を忘れている。もう一度索引からやり直して本編で意味を確認し、辞書を閉じて、それをメモしようとすると何が書いてあったか覚えていない。また最初からやり直さなければならない。

物を忘れ、物をなくし、それを思い出そうとしたり、探したりして、一日の大半が過ぎていくのである。

だから、大事なことは口で言う。漢和辞典を引くときは、例えば「1536、1536」とページ数をつぶやきながら、職員室を施錠する時は、どこを確認したか忘れないように、手指し指さし「ガスOK。扇風機OK。鍵は今、確かに締めたよ」とつぶやきながら。

哀れな奴だと思う方がいるかもしれない。でも、とりあえず、僕の「老い」はさておくとして、記憶や確認にはこうした体と連動させてさせることが昔から行われてきたのであって、あながち哀れなことでもない。
いやむしろ、社会では大事にされてきたやり方で、駅員さんや電車の運転手さんはその典型であろう。学生時代にデパートでバイトをした時も、「お客様からお金を預かった時には、必ず『○○円お預かりします』と言いなさい」と教えられた。これは店員と客の双方の誤りを防ぐ方法である。


体との連動ではないが、受験生が歴史の年号を語呂合わせで覚えるのも、何かと関連付けて覚えようとする点においては、その必死さは僕の哀れさと何ら変わらないとも言える。

いい国作ろう鎌倉幕府(もう古いらしい)
鳴くよ鶯、平安京とか。
でも関連というのが難しい。「鳴くよ鶯、平安京」も、僕たちはかつて「泣くよ坊さん、平安京」と覚えた。桓武天皇が道鏡ら僧侶の権力を排除するために奈良から京都へ都を遷したとすれば、その方がより関連付けられる。
語呂合わせの良し悪しは、そうした内容との関連の深さによるのだろう。

しかし、例えば古文単語。生徒は英単語より古文単語の方が記憶しにくいというが、語源やその語の本来的な意味と結びつけても案外記憶を刺激しない。
例えば「つきなし・つきづきし」という語を教える時、「つく」という言葉は、ピッタリするフィット感だから、「つきなし」にはそれがなく、「つきづきし」にはそれがあると説明しても、「つれなし」は「連れ無し」であって内面と外面に関連がない、すなわち内面で鬱屈したものがあってもそれを表に出さずに平静を装うことだと説明しても、これも入りにくい。

かつての同僚が「あさまし」(意外さに驚き呆れる)という語を生徒に教える時に、
いいか君たち、朝起きたらベッドの前にマッシーっていう怪獣がいたんだ。あさ、マッシーだよ。驚き呆れたね、と覚えるんだ
と言っていた。
なんとばかばかしいと思うかもしれないが、これが不思議なことに結構一発で生徒の頭に入っていく。そうすると、語呂合わせという記憶術には強烈なインパクトや楽しさも必要なのかもしれない。

文法でも、助動詞「べし」の意味、推量・意志・可能・当然・命令・適当・予定をスイカトメテヨと覚える伝統的な覚え方も入りやすい。転がっていくスイカを一生懸命追いかけていく絵が思い浮かんだりする。
また助動詞「り」の接続のサ変の未然形と四段の已然形(命令形?)を覚えるのにそれをサ未・四已さみしい)と覚えるのも入りやすい。

「ばや」という終助詞も自己希望を表して「~たい」という意味だが「バヤリースを飲みたい」という古典的な覚え方があって、これも入りやすい。

伝統のある語呂合わせには、やはり力があるなあと思ったりする。

自分でもいろいろ考えてみる。
「ばや」以外の願望の終助詞群。
自己希望を表す「てしがな・にしがな」は「しが」がその中心なので、「バヤリースを飲みたい」を真似て「志賀(滋賀)に行きたい」。
もがな」は、実現不可能な願望で「~があったらなあ・いればなあ」と言う意味なので、宝くじにひっかけて「10億円もがな」。
「なむ」は他への願望「~てほしい」という表現になる、未然形に接続するということが他の「なむ」との識別上大事なので、「ミーを何(なむ)とかしてほしい」と覚えるとか。

まだ、古今集から新古今集までの八つの勅撰集を八代集というが、これを「公金の五千万円を横領して、家の周囲の守りを五重にし、金曜日しか深呼吸ができない」という文脈で、「|公金《古今》の|五千《後撰集》をくすね、周囲拾遺五重《後拾遺》、|金曜《金葉》|しか《詞華》|せん《千載》|深呼吸《新古今》」としてみたり。

あるいは漢文の返読文字を覚えるのに「多少難易有無為に、所ジョージ(従・自)と()読み返す」とか。

漢文の句法で「不敢A」「敢不A」は似ているが、後者が反語表現になることが重要なので、これを「|敢不《カンフー》で|反抗《はんご》する」としてみたり。


ただ、もうひとつ大きな問題があって、それは語呂合わせで覚えたはいいが、それが何を意味しているか覚えていないという現象である。

「スイカトメテヨ」は覚えていても、それが何を表しているかを忘却してしまう。
「奉る」という語は謙譲の用法のほかに「着る・飲む・食ふ・乗る」の尊敬語の用法があるのが覚えにくいのだが、これを「衣食住」に引っ掛けて「衣食乗」の尊敬語と覚えると良いのだが、衣食乗は覚えたが、それが何を覚えたのかを忘れてしまうのである。

猫や犬が餌をどこかに持って行ってKeepしようとして、でもその隠し場所を忘れるという、これはその類いである。

虚しくも、でも、こうした営みや忘却が人間的で面白いと僕は思ったりする。


■土竜のひとりごと:第187話

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