第295話:所与と多様性と
このところ「所与」という言葉が気になる。
気になっているのは「所与を生きる」という考え方である。「所与」は「与えられた」という意味であれば、その考え方は、僕らは「与えられた生を生きている」ということである。
僕らは「与えられた生」を生きている。
男女の性差、この肌の色で、この身体で生まれてきたこと、やがて死ぬべき生を生きていることも自分では選べない。
それと同時に、僕らは社会的な「所与」を生きてもいて、家族や社会の一員として生活を営みながら、その社会での「所与」のルールや価値観に従って生きている。
客体として与えられた生を生きていると言えるかもしれない。
一方で僕らは「自由意志」を持つ主体として社会にあると言われる。そうすると当然そこに社会における「所与」との対立が生まれる。「所与」の「枠」を基盤としていきながら「自由意志」がその「枠」を打ち破り超えろと言うのである。
「所与」はマイナスか?
「意志」はプラスか?
同時に「多様性」という言葉も気になる。
もちろん「多様性」を尊重するということに疑いはない。多様な生態系のあり方を保全する、「所与」として障害を持つ生を生きる人を認める、社会におけるマイノリティの尊厳を認める、多様な生き方、考え方を互いに受容する・・。
そうしたことは当然だし、「社会」の「枠」の矛盾を超えていくとき「多様性」という言葉は新しい視点を得る手掛かりになる。
ただ、僕らには超えられない「枠」がある。
ふとそんなことを思って見たのは、こんな光景を見たからかもしれない。
少し前から何度か老人が犬を連れて散歩するのに出会ったが、その犬もかなりの高齢と見えて、後ろ足がほとんど自由に動かず、後ろ足を引きずって歩く姿を目にしていた。
そして数日後、その犬は車輪の付いた器具を後半身につけ、老人にリードを引かれながら必死で歩いていた。
そんな光景を見ながら、
生きるということは「所与を生き切る」ことではないのか?
ふと、そんな気がしてしまったのである。
やがてそう遠くない将来の自分の姿をそこに見たのかもしれない。
・生きるとは所与を生き切ることだろう 老人の引く老犬がゆく
生きている限り超えられない「所与」があり、「自由意志」や「多様な生き方」は「所与」と対立する。
「所与」を自覚して生きることはマイナスか?
「所与」という言葉が気になると書いたが、ここのところ同じように「多様性」という言葉が何か気になる。
ジェンダーの問題も障害者や人種の違いなどによるマイノリティに対する差別や偏見は社会が作った恣意的な「所与」として克服されるべきものだと思う。
でも、例えば男であり、女であり、日本人であり、自分の両親のもとに生まれたことなど、そうした「所与」それ自身は、「死」と同じように個人が背負いつつ、向き合わなければいけない課題であるような気がする。
気になるというのは、「多様性」というwordが深く考えられることなくすべてを飲み込んでいくような違和感だろうか。
もし「多様性」が多様な生き方、在り方を認め、人間としての差異を解消し普遍的な人間という抽象性を目指す理念だとしたら、逆に僕らが個別性や具体性を失うことになる。逆に言えばその時「所与」は「個性だ」ということになる。
もし「多様性」が、個々の多様な生き方、個性を無限に認めていくことであれば、逆に「多様性」によって「排除」されるマジョリティが作り出されたり、果てしのない変化の中で「溶解」されてしまう生き物としての基本もあるような気がする。
多分、「多様性」は差別・偏見・迫害に対抗するために生まれた理念であって、互いの「所与」としての差異を認め合うことなのだろう。
僕らは生物多様性と言いながら固有種を守るために外来種を「駆除」し、鳥インフルエンザの拡大を防ぐために何千羽の鶏を「殺処分」する。例えばジェンダーレストイレがまだまだ問題を抱えているだけでなく、いじめや人種差別、非道な犯罪も一向になくなる気配はない。
「多様性」とは「平等」と同じように「美しい」理念であって、それが実現されるにはお互いが自分という生き物としての「所与」、その限界と醜さを知る必要があると言えるかもしれない。
■土竜のひとりごと:第295話
前にもほとんど同じようなことを書いていたことを思い出したので、この記事は過去記事に上書きして忍ばせておくことにしたい。