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床屋

自分が30歳を過ぎ、40歳を越えた時にも、それは確かに一つの衝撃でありながら、どこかに「こんなもんか」という思いが胸の中には同居していたのだが、息子が中学生になった時、自分がその親であるという事実には何故か大いなる衝撃を感じたりした。

中学生の親と言えば、それはもう筋金入りのオジサンであり、その僕の中にあるイメージと自分の像とが、僕の頭の中で全く一致しなかった。「十分、オジサン化している」とカミさんは言うのだが、僕自身は何の根拠もなく、18歳くらいでストップしている気がしていたのである。

息子はバリバリ成長し、身長も足のサイズも、あっという間に追い越していった。「お父さん、最近縮んだんじゃない」なんて言われると悲しくなったりもしたのである。あろうことか息子のお古が僕に回ってくるようになり、息子の名前の入った運動靴を履くことにもなった。

貧乏な我が家のこと、そのうち服なんかもどんどん回されて来るに違いない。にきびがポツポツと出始め、顔立ちにはまだ幼さも残るが、真新しい学生服に身を包んで登校してゆく姿など、やけに精悍な感じがしたりもし、縮んでゆく親を尻目に、無限の可能性を秘めて輝きに満ちた姿に感じられた。

さて、中学入学を控えた頃から、息子は床屋に行くようになった。こんな風に言うと、床屋にも行かせずボウボウと髪を伸ばしていたのかと怪訝に思われる方がおられるかもしれないが、実は、それまではずっと僕が切ってやっていた。だから彼は11年と数ヶ月で、3回しか床屋に行っていない。

3回しかないので3回とも良く覚えている。

最初は0歳のとき。生まれたまま伸び放題だったのを坊主にした。彼は頭のてっぺんに2つのツムジがあってウルトラマンのようにてんこが突っ立っていた。切った髪は細く金髪のようだった。
次は小学校3年生の遠足の前日。何を思ったか、自分で切って失敗したらしく、頭に直径3センチくらいのハゲを作った。修復を試みたが、どうにもならず、結局床屋に行って坊主になった。
3回目は5年生。突然、スポーツ刈りにしたいと言い出して、それはお父さんにはできないから床屋に行って来いということになったものである。

大雑把に11年間、2ヶ月に一度として、66回。そのうち63回までを僕が切ってやったことになる。偉大な父親と言わねばならない。


無論、素人のやることだから粗雑に違いない。まず耳周りから襟足を適当な長さに切り揃える。あとは左手の指で適当な長さにはさみ上げながら、ジャカジャカと切るだけである。まあ時々は虎刈りにもなる。まだらになり段々ができ、時には一箇所だけがやけに薄くなったりもする。

髪を強引に引っ張られた息子がうめき声を上げたり、耳をはさみで切って血が出たりすることも確かになかったとは言わない。

しかし、5回に1回位くらいは成功するので、そういう些細なことにこだわるべきではないのだが、カミさんは気が気ではないようで、いつも心配そうな顔をして、愛する息子が父親の自己満足のために弄ばれているかのような眼をして見つめていた。

息子はそれでも、耳や首を切られたときには痛烈な文句を言うが、不思議なことに、彼は父親に髪の毛を切られることや、その出来が恥ずかしいほど悪いことについてほとんど文句を言ったことがない。

それは恐らく父親である僕に対して限りない尊敬の念を抱いているからなのだろう?僕は僕で、そういう息子の頭を切ることで、文字どおり血の出るような温かいコミュニケーションを図ってきたのである。

そういう我が家の歴史を経てきたことを考えると、たかが息子が床屋に行くようになったという当たり前のようなことにも、それなりの感慨があったわけでる。子供が自分の手を離れて行くことは、それまで作り上げてきた時間や努力を考えると、それはそれで寂しいことではあるが、やむをえないことであるのだろう。

田舎の小さな町、まだ蛍が出るような自然に囲まれて、息子は純朴で温かい少年に育ってきた。人にも恵まれ、雪の降った日、どんどん焼き、子供相撲、お祭り、・・友達と犬っころのようにはしゃいで遊び回った。このままこうした時問がずっと続けばいいと思うような瞬間を、何回も何回も彼からもらって、僕らも一日一日を大事に生きてきたものである。

子の背中遠ざかりゆく春の道



そう言えば息子の63回の散髪は、仮に一回2500円としても、なんと15万7千5百円にもなるではないか。なんとかこれをせしめる手はないだろうかと、あれやこれや考えあぐねる、僕という偉大な父親なのであった。


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