第31話:被害者が加害者であること
■海のトリトン
その昔、「海のトリトン」というテレビアニメがあり、トリトンという少年がイルカのルカと共に平和を脅かすポセイドン族に挑み、これをやっつけるという話だった。
「イルカに乗った少年」という歌もあったが、イルカに乗って海を自在に駆け巡る少年という設定の特異さ、ポセイドンの送り出すヘンな怪物、ほのぼのとした主題歌などに惹かれて、小学生だった僕はこれを楽しみに見ていたものであった。
今思えば、勧善懲悪の話は多かった。マグマ大使だとか、仮面ライダー、ウルトラマン、ミラーマン、ジャイアントロボなど枚挙にいとまない。悪者を正義の味方がやっつける。そう言えば、正義の味方はカッコよく、悪者は醜い姿をしているのも、だいたい「お決まり」だった。
「海のトリトン」というニメもそういう「お話群」の中の一つではあった。
ただ、その最終回は違っていた。ポセイドン一味を倒したトリトンが、その壊れ果てたポセイドンの都市を目の当りにして、
と、茫然としたのだった。
トリトンの突き当たった問題は、正義であること自体が既に悪を内包する不条理ということになろうと思う。
被害者=加害者の構図、被害者であることが既に加害者であるという矛盾と言い換えて差し支えない。
トリトンはポセイドン一味の侵略に対しては確かに被害者であったけれど、同時にポセイドン一族にとっては侵略者、加害者であったということになるのである。
■差別ということ
世の中にはこうしたことは数多ある。
コロナ禍で起こっている数々の差別もそうだろう。被害者だと訴える主張は、実は痛烈に加害者の刃でしかない。
少し飛躍するが、こんな悲しい事態もあった。高度経済成長期に、「公害」で悲惨な思いをした農家が、一致団結して無農薬栽培を手掛けることを決意した。すばらしいことだったが、無農薬栽培には非常な手間がかかり、収益があがらない。そんな状況の中で、やむにやまれず、農薬を使う農家が現れる。かつて「被害者」として団結した農家たちが、その農家を責める「加害者」となる・・。
コロナ禍で起こっている差別は、この「切なさ」にも値しない。
もう少し飛躍したい。
こうした表裏一体のパラドックスも、世の中には数多ある。
・正義であることが既に悪であること
・思いやり自体が差別を内包していること
・愛情が依存を育てること
・人間は自然災害に見舞われる被害者であると同時に自然を破壊する加害者であること
・日本は原爆の被害者であるかもしれないが、アジア各地に侵略した加害者であること
あるいは
・自分の悪や加害を正当化するために正義や被害が持ち出されているのではないか
・差別がなくならないのは、自分の差別に気付かないからではないか
そういう疑問や差別を考えるとき、差別の概念を、あるいは差別の不正であることを「お説教」しても、差別がなくならない。
それをどうすればいいか? と考えた時、紹介してみたい言葉がある。
■国立駿河療養所(ハンセン病)
かつて、御殿場の神山にあるハンセン病の療養所(駿河療養所)を訪れたことがある。ハンセン病はかつて差別を受け、隔離されていた酷い歴史がある。
二日間お邪魔させてもらった中で、当時の自治会長だった西村さんという方のお話が印象に残った。
こんな言葉である。
長い病気と差別、偏見の苦しみの中で、どんなに人を恨んでも当然であると思われるのに、こうした差別に苦しんできた人たちの、このような自己批判の姿勢に、僕らは襟を正さずにはいられない。
さすれば、コロナ禍で起こっている「差別」が、いかに「恥ずかしむべき行為だ」ということが理解されるだろう。
蛇足かもしれないが補足したい。
■明石海人「癩は天啓」
次に引用するのは、明石海人というハンセン病の歌人の『白描』という歌集に書かれた序文である。
「天刑」は天がくだす刑罰。当時、業病とも天刑病とも言われたこの病を、この序文の末尾で「天啓」(天の啓示)として転換して表現する海人。
苦しみ抜いた人だけに見える「青山白雲」がある・・そんなふうに言えるが、それは並大抵のことではない。
人を生きる者として、その生き方を感じ考えてみたい。
そこに差別をなくす糸口がある。そんなふうに思う。
(土竜のひとりごと:第31話)
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