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コロナに関する断想

コロナウイルスに世界が揺れている。学校も揺れている。当初、まさかそんなことになるとは思わなかったが、僕も三日に一日の出勤で他は在宅勤務になった。

一日、家にいて映像授業を作っている。ITCなどに手を出さないと決めていたが、これもひとつの好機と思い直し、スマホも買い、日々、ひたすら作っている。

そう言うと格好はいいが、実際は、機材とグーグルとの闘い。ひとつつまずくと、それを解決するために半日かかる。職場に行って詳しい人に聞けば5分もかからないことを・・。教材を作っているというよりも、映像教材を作るための方策を模索している感じだろう。それでも、「その日暮らし」(よくても翌日、一週間)の自転車操業状態の日々からすると、こうやって自分のやってきたことに形をつけて整理することは、楽しくもあったりする。

あい間に庭の草取りをし、料理を作り、洗い物をする。普段はしようとしても全くする気になれないこと。

カミさんとも久しぶりに、「この花はねえ」とか、「あの鳥はねえ」とか、そんな会話もし、床屋に行くのも怖いので散髪もしてもらう・・。朝はご飯を食べながら連続テレビ小説を見てから仕事にかかる。「こんな生活もあるんだ」という、これを言ったら恐らく叱られるだろうが、これはコロナがもたらした「働き方改革」なのかもしれない。

普段であれば4月、5月は新学期の授業とインターハイ予選の練習と試合で、まったく休日はない。新しい生徒たちと関係を作りながら、休日は一日中部活で真っ黒に日焼けしながら駆けずり回って悪戦苦闘しているはずだ。そういう日々を思うと、「なんて静かな日々なんだろう」と思ってしまったりもする。「40年近くよくやってきたな」と思ってみたり、「ああ、あの怒涛の生活に戻れるのだろうか」と、却ってそれが怖くなったりもする。


折しも5月初旬。爽やかな気候。柿若葉がみずみずしく青く、周囲では田植えが始まり、どこに隠れていたかと思うほど、田に水が入った瞬間、うるさいほど蛙が大合唱を始める。家の横の小川ではカニが動き始める。いたるところいろんな花が、あるいは白く、あるいは黄色く、あるいは紫に、不思議にどれも決まって小さな可憐な花をつける。

庭にもいろんな草花がそれこそ次から次へ芽吹いてくる。タンポポ、リンドウ、カラスノエンドウ・・。自分が名前を知らない草花たち。

片手で持てる小さな電動の草刈り機をカミさんが買ってあったので、それを使ってバリバリ切る。スギナが密集して生えているのを刈っていると、カミさんが顔を出し、「それは採らないで残しておいて」とその中の一本を指さす。

眺めてみると一本だけではなく、幾本か散在している。なかなか難しい注文で、バリバリ刈り進めていくと、つい切ってしまう。「あっ」と思うが、後の祭り。でも仕方がない。バリバリ切らなければ果てしなく時間がかかる。さっき言った小さな可憐な花も区別するわけにもいかず、結局は切ってしまう。「お前がもし、この地で生きていく宿命の下にあるなら、もう一度出ておいで」と妙な言い訳を言いながら。

でも、そうやって気を使われたり、カミさんによって区別される命とは何だろう。と思ってみたりもする。昭和天皇は「雑草という名の植物はない」という趣旨の言葉をおっしゃったそうだが、どの命にも区別はない。それはそれで大切な考え方であるとしても、生活者の立場で、家に畑に生えてくる草は雑草でしかない。

クジラを取ってはいけないという主張と、クジラを食べることは文化だという立場に似ている。「他の生物は食べていながらクジラだけが何故特別であるのか」という主張は確かにそうとも言える。でも、では「家で飼っている猫を食用に徴収する」と言われたら、飼い主の誰もが反発するに違いない。中には、自分の命を投げ出しても猫を助けようとする人がいても不思議ではない昨今の様子ではないか。命に差はあるのか?ないのか?

生を受け、50日で出荷されて食用に供される鶏もいる。牛や豚もそうであろう。環境にも食事にもとても気を使い大切に育てられ、人間に食べられるためにだけ生まれてきた命とは何だろう?

でも、そういう疑問もそういう命を食べて生きている僕らには正しくない。この草取りをしている間にも僕は無意識にたくさんの命を踏み潰しているかもしれない。コロナで道に倒れて亡くなった老人もいたし、志村けん、岡江久美子も亡くなってしまった。世の中に与える衝撃は後者の方が強い。命に差はあるのか?命とは何だろう? 

簡単に言えばそれは、多分、「その命」に対する僕ら自身の「思い」なのだと思う。身内の人が亡くなれば悲しみは深い。アフリカで飢えに苦しむ子供が亡くなったとしても(それに心を痛めたとしても)対岸の火事であるかもしれない。「思い」を共有することは、とても困難だ。でも、それが「困難であるという認識」は「共有できる」かもしれない。

コロナでたくさんの人が亡くなった。今、僕の身の周りは平穏だが、いつ僕の身にも禍が降りかかって来るかはわからない。政府の対策は後手後。批判が殺到している。「政府には『思い』がない」のだろう。命を守るより経済を守りたい。あるいはこんな時に検事総長の定年延長法案を押し通そうとするところを見れば、自分たちの「座」、権力を守りたい。それは明らかだろう。

ただ、それとは別にこんなことも考える・・。僕らが政府を批判し、困窮して政府に助けを求めるのは、納税者として当然の権利行使なのか?それとも自分の生活を自分で守るべき責任を政治に委ね、生活を保障してもらうことで、政府の管理下に完全に置かれてしまうことではないのか?政府がダメだと言うから従い、政治がOKを出したら、その責任は政治にだけあるのか?僕らの主体は? 僕らもその自分自身に対する「思い」を考えなければならないのかもしれない。

あるいは、こういう状況の中でも利益を上げている企業、世界や日本の富を牛耳っている資産家がお金を世の中に還元していくことがあっていいのだろう。一部の人が巨万の富を抱えている一方で、格差に悩み、日々を希望も持てずに生きている人がたくさんいる。コロナで失業、廃業せざるを得ない人たちもたくさんいる。・・そこに「思い」はあるか?分配、還元、そういう福祉型の資本主義が資本主義の目指す正しい理念ではないか。そんなことも思う。

個人の生の自立と政治の関与の在り方と経済の理念との絡み合い。日常的には無意識な矛盾がこういう切迫した事態の中ではじめて意識される。もちろん命や生活を脅かす困難な状況にあって「寝言」に過ぎないと言えばその通りだが、よりよいシステムが構築されるには、あるいは膠着したシステムを壊すには、それを支える「思い」がなければならない。

「思い」とは他者への眼差しであろうが、共有されがたい「思い」を超えるためには、共有が困難なものであることを理解すると同時に、ここで、この場合において、自分が感じるしかないことを明確に感じることだろう。そういうことは金や権力にしがみついている人間には分からない。感じよう、ということである。今、この状況を自分がどういきているか。

困難に打ちのめされても、工夫して助け合って、そこから立ち直って歩く。よくわからないが、命とはそういうものかもしれない。
(2020.5.16.no.219)


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