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第201話:コロナに関する断想

■:断想1

コロナに世界が揺れている。学校も休校となり、当初そんなことになるとは思わなかったが、僕も三日に一日の出勤で他は在宅勤務になった。

一日、家にいて映像授業を作っている。ITCなどに手を出さないと決めていたが、これもひとつの好機と思い直し、スマホも買い、日々ひたすら作っている。

そう言うと聞こえはいいが、実際は機材とグーグルとの闘い。一つ躓くと、職場で聞けば5分もかからず解決することに半日かけて自力で試行錯誤している。自分の無知との闘いである。
それでも「その日暮らし」の自転車操業状態の日々からすると、こうして自分のやってきたことに形をつけて整理することは、楽しくもあったりする。

合間に庭の草取りをし、料理を作り、洗い物をする。普段は全くする気になれないこと。
カミさんとも久しぶりに「この花はねえ」とか「あの鳥はねえ」とか、そんな会話もし、床屋に行くのも怖いので散髪もしてもらう。朝はご飯を食べながら連続テレビ小説を見てから仕事にかかる。

「こんな生活もあるんだ」という、これを言ったら叱られるだろうが、これはコロナがもたらした「働き方改革」なのかもしれない。

普段であれば4月、5月は新学期の体制作りとインハイ予選で目が回る忙しさである。新しい生徒たちと関係を作りながら、休日は一日中部活で真っ黒に日焼けしながら駆けずり回って悪戦苦闘しているはずだ。

そういう日々を思うと「なんて静かな日々なんだ」と思ってしまったりもする。「40年近くよくやってきたな」と思ってみたり、「あの怒涛の生活に戻れるのだろうか」と却ってそれが怖くなったりもする。


■:断想2

折しも5月初旬。爽やかな気候。柿若葉がみずみずしく青く、周囲では田植えが始まり、田に水が入った瞬間、どこに隠れていたかと思うほど蛙が大合唱を始める。家の横の小川ではカニが動き始める。至る所にいろんな花が、あるいは白く、あるいは黄色く、不思議にどれも決まって小さな可憐な花をつける。

庭にもいろんな草花が次から次へ芽吹いてくる。
タンポポ、リンドウ、カラスノエンドウ。自分が名前を知らない草花たちも。

電動の草刈り機で草刈りをする。バリバリ刈っていると、カミさんが顔を出し「それは切らない残して」とその中の一本を指さす。眺めてみると幾本か散在している。なかなか難しい注文で、バリバリ刈り進めていくのでつい切ってしまう。「あっ」と思うが、後の祭り。
バリバリ切らなければ果てしなく時間がかかる。小さな可憐な花も几帳面には区別できずに切ってしまう。「お前がもし、この地で生きていく宿命の下にあるなら、もう一度出ておいで」と妙な言い訳を言いながら。

でも、カミさんによって区別される命とは何だろうと思ってみたりもする。昭和天皇は「雑草という名の植物はない」という趣旨の言葉をおっしゃったそうだが、どの命にも区別はない。それは大切な考え方であるとしても、生活者の立場で家に畑に生えてくる草は雑草でしかない。

捕鯨禁止の主張と、クジラを食べることは文化だという立場に似ている。「他の生物は食べていながらクジラだけが何故特別であるのか」という主張は確かにそうとも言える。
でも、では「家の猫を食用に徴収する」と言われたら、飼い主の誰もが反発するに違いない。中には、自分の命を投げ出しても猫を助けようとする人がいても不思議ではない昨今の様子ではないか。

命に差はあるのか?

生を受け、50日で出荷されて食用に供される鶏もいる。牛や豚もそうであろう。環境にも食事にもとても気を使い大切に育てられ、人間に食べられるためにだけ生まれてきた命。それは何だろう?

でも、そういう疑問もそうした命を食べて生きている僕らにはする資格がないのかもしれない。草取りをしている間にも僕は無意識にたくさんの命を踏み潰しているかもしれない。
コロナで道に倒れて亡くなった老人もいたし、志村けん、岡江久美子も亡くなってしまった。世の中に与える衝撃は後者の方が強い。

命に差はあるのか? 命とは何だろう? 


■:断想3

単純には「命の差」は、その命に対する僕らの「思い」の差である。
身内の人が亡くなれば悲しみは深い。アフリカで飢えに苦しむ子供が亡くなったとしても(それに心を痛めたとしても)それは対岸の火事であるかもしれない。

僕らは、その「思い」を「自分」を超えてどこまで広げることができるのだろう?

政府の対策は後手後。批判が殺到している。
政府には「思い」があるか?
命より経済か? あるいはこんな時に検事総長の定年延長法案を押し通そうとするところを見れば、自分たちの権力を守ることの方が大事だと見える。

この状況下でも利益を得ている企業、資産家がいる。
そこに「思い」はあるか?
極端な格差社会。失業、廃業。分配、還元、そういう福祉型の資本主義が資本主義の目指す正しい理念に近づく方法はないか。

あるいは、僕らに「思い」はあるか?
批判は主体としての責任回避かもしれない?。数々の誹謗中傷、デマの拡散、孤独死。飛躍すれば、至る所で戦争が起き命が奪われている。僕らにできることはあるようで、でもできてはいない。

日常的に潜む矛盾がこういう切迫した事態の中で疑問として浮き彫りになる。
今、そんな悠長なことを言っても役に立たないかもしれないが、今だからこそ気づけることがある。

「感じよう」ということである。
今、この状況を自分がどういきているか。

「思い」を共有することは困難なことである。でも、それぞれが「感じよう」とした経験がそれを可能にする手掛かりになるかもしれない。
困難に打ちのめされても、工夫して助け合って、そこから立ち直って歩く。
命とはそういうものかもしれない。

土竜のひとりごと:第201話(2020.5.16)


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