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ウィル・スミスではないが

今、住んでいる所はまだ家の周りを蛍が飛ぶような、いわゆる田舎である。ここに越してきた頃、近くの床屋に行ったのだが、話好きのオジサンで、あれやこれや話していくうちに「仕事はなに?」と聞かれたので、あまり気が進まなかったが「高校に勤めてる」と言うと、「それじゃ先生かい」と反応する。

ちょっと嫌な予感はしたが、「そうです」と言うと、「それじゃ」と言ってオジサンは終わりかけている僕の髪の毛のセットを崩し、何だか分け目を入れて櫛で撫で付けている。「できたよ」と言われてメガネをかけ、鏡を見ると、なんと髪の毛は七三にピシッとセットされて、見たことのないような自分が映っている。

だいたい僕はモシャモシャとナチュラルであることを好むのであって、櫛さえ今までの人生の中で殆ど使った記憶がない。茫然としている僕にオジサンは「やっぱり先生はこうでなくちゃ」と言うわけだ。

今時、先生という職業にどれほどの敬意も向けられてはいない気がするが、まだまだ田舎のこととて、先生とは立派に振舞うべきものだということが通念として残っているらしい。近所の人もほとんどの人が僕のことを「先生」と呼ぶ。ダメ教師としては恐縮する思いである。

自分を教師だなどと意識することはほとんどない。ただ、何となくいわゆる一般緒社会人とは違った崩れたところがあるらしく、カミさんは街を歩いている人を見ながら、教員が歩いて来るとその人が教員だと見破れるらしい。「どこかチグハグな感じなのよね」と言うのだが、特異な(でも特に必要のない)能力である。

教師の「ニオイ」というのもするらしく、忌避すべき教師根性みたいなものもあって、自分ではそういうものを身につけたくないとも、自分は違うとも思っているのだが、ふとそれが顔を出すときがあるようだ。

息子がちょっとした悪さをしたので叱ったのだが、何故それがいけないのか、「悪い」ということはどういうことなのかを説明し、それをしてしまう原因を指摘し、だからどうあればよいのか、何に気をつけてゆくべきかまで、誘導尋問を交えながら、理路整然と話をした。

これが教員的な叱り方、「説諭」というやつなのだろう。自分ではそんなに長く話をしたつもりもなかったが、カミさんは「2時間話してたわよ」というわけで、すっかりしょげて早々に寝てしまった子供の寝顔を見ながら、自己満足に浸ってコンコンとしゃべっていた自分を反省してみたりしたのである。

それで僕はある先輩の教員が話していたことを思い出したのだが、その人がやはり息子さん(高校生)を叱っていたら、突然その子が泣き出したのだそうである。何故突然泣き出したのか怪訝に思って聞いてみると、それは反省して泣いたのでもなく、叱られたことに悔しくて泣いたのでもなかった。

その子いわく、「お父さんの言うことはもっともで、確かにそうなのであって、正しすぎて僕には一切反論できる余地はない。ただ自分はどんどん追い詰められて、自分が本当に悪い人間に思えてくる」と。「俺はそのとき反省したよ」とその先輩は言い、言葉を継いで「オヤジというやつはもっとムチャクチャでなけりゃいかん」としみじみ語ってくれた。

「ばかやろう」と怒鳴って、ガツンと頭に一発食らわせて終わる。その方がさっぱりしていて、かえって伝わるものがあるということなのだろう。また、普段飲んだくれてろくでもないオヤジにムチャクチャな怒り方をされれば腹が立つわけで、怒られて自分が悪いことは承知しながら、そこに「なに、このくそオヤジ」という批判の余地がある。簡単に言えば子供の逃げ道があるわけで、それが大切だということになろうと思う。

「教員は『怒る』のではなく『叱る』んだ」と、さっきとはまた別の先輩がまだ若かった頃の僕に教えてくれたが、どんな場合でも逃げ道を完全にふさいでしまったら子供の心の行き場がない。お互い生きているナマモノであるだけに奇麗事だけでは済まされない修羅場がある。勿論、暴力容認ということではない。


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