第116話:ため息箱
まだ20代のころ、新設校に勤務したことがあり、若者が集まり、活気あふれる職場だったが、ある日、ため息箱を作ろうということになった。
教員は人間が相手の商売なので、いいことも勿論たくさんあるが、いいことばかりでないことも多々あって、それなりに、しんどい。1時間の授業が終わって職員室に帰ってくると、椅子に座った瞬間、思わず「フウー」とため息が出る。
だいたい納得のいく授業など年に何回あるだろう。1時間の授業を作るために一生懸命準備しても大概は不発に終わり、嫌悪感とか空しさとか、そういうものを教室から職員室まで引きずってくる。
それが、ほっと椅子に座ったと同時にため息となって吐き出されるのである。
僕のため息は大きいらしいが、みんながそうやってため息をつくことが、何となく職員室に、疲れた、よどんだ空気を漂わせることになり、「これは良くない」と誰かが言い出した。
そこでそういう時には必ず冗談を言うある人物が「ため息箱でも作って、ため息をついたらお金を徴収すれば」と言い、そういうことになると必ず生き生きと動き出す別のある人物が早速箱を用意し、きれいに紙を貼り、ため息箱と書いたりなんかして、あっという間にため息箱が設置されてしまった。
1回ため息をつくごとに10円というルールも作られてため息罰金制度がスタートしたのであった。人間というのは実に制度を作るのが好きな動物なのである。
日常に耐えるためには何らかのドキドキが必要である、というわけで、なんだか新鮮な雰囲気が職員室にみなぎった。
「フウー」も「あーあ」も「ハー」もダメである。ちょっとした緊張感。
でも椅子に座る瞬間はそんなことを忘れて、ついため息が出てしまう。
「フウー」と椅子に座ると、「ハイ、10円ね」と待ち構えていたように声がかかる。実際、授業から戻ってきて椅子に座る瞬間を彼らは待ち構えているのだ。
そう。つかまえること、他人のミスをチェックすることは存外に楽しい。
「あーあ、やっちまったよ」と思わず言うと、「あれ、いま、あーあって言ったよね。ハイ、もう10円」とすかさず盲点をついてくる。
中にはどんな小さな息遣いも聞き逃さないでチェックする達人も登場する。
中には「ハー」とため息をついて「あっ、やっちまったよ。バカだな俺は。10円、10円と」と一人で勝手にやっている人もいる。
それから、何とか必死でごまかそうとする人もいる。
だから、息を吹いたのかため息なのか微妙なものについて審判も出現する。これは日頃から尊敬されている人でなければならない。それこそ豪快に大きな声で「あーあ」と言ってしまった人が特別ルールで100円払わされたり、そんなこんなで楽しくみんなでバトルを繰り広げたのであった。
ところが、破綻しない制度はない、というわけで、このため息罰金制度もやはり破綻を迎えるときがやってきた。
楽しいと言ってもバトルとは闘いである。それが人間関係に微妙な影を落とさないことはないとはいえない。「俺はため息なんかついていない」「ウソつけ!」といった具合。
それにため息というのは基本的には生理現象であって、それを抑制することはオナラやウンチを我慢するのと一緒で人間の自然に逆らうことである。それはストレスになる。
今の職場にも夏の暑いときに思わず「暑い!」と言うと手を出して100円を要求する人がいるが、我慢は変な緊張を強いる。無理があるのである。
もっと単純には、しばらくたってみんなが飽きた。
そう。新鮮なドキドキが、日を追うごとになくなってきたのである。そうなると制度の崩壊は速い。指摘されて払わない人はいないが、そこに遊び心の楽しさがなくなる。段々、指摘することが面倒になる。
中には10円を先に入れて、「今から俺はため息をつくから」と宣言してから「あーあ」と深くため息をつく人が出てきたり、100円を先に入れて「これで10回までOK」とため息をキープする人も出てきた。
ルールとマナーが正常に機能しなくなったのであって、ここに至って何ヶ月かに渡って君臨したため息罰金制度は崩壊したのである。
徴収されてため息箱の底に眠っていた金は、そういう時には必ず「飲もう」と言う人の提案で、飲み代の足しにされることになった。
いくら貯まったのか定かに知らないが、恵まれない国の人に寄付をしようなどと考えもしないところが、いかにも庶民的で良い。みんなのため息を元手にして憂さを晴らそうというわけで、大いに飲んで騒いだのであった。
これがため息箱に関しての一部始終である。
ため息をつくと幸せがひとつ逃げていくんだと教えてくれた人がいたが、じゃあ、いったい僕らの体の中にはいくつの幸せが住んでいるんだろうなどと、薄幸な僕は思ってみたりする。
偉い人の訓示に、暑いときに暑いと言わず、耐えて努力するような人物が大成するというようなのが時々あるが、僕は所詮大成する人物ではないから馬耳東風で聞き流すことにしたい。
■土竜のひとりごと:第116話