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第137話:草取り

今日は庭の草取りをした。
近年、猛暑で草の伸びも速い。同じく暑いせいで湿気の多いこの土地では百足が大発生し草を取ろうと物を動かすと決まってそこに百足がいる。
わが家では僕もカミさんも、就寝中に百足に食われる被害にあっている。夜テレビを見ていると百足が居間を這ってきたりもする。田舎ならではであろう。

同じく田舎だという理由で、他にもたくさんの生き物がいて、田舎育ちの僕が言うのも何だが今まで見たこともない様々な生物にも出くわす。
カミさんは一応、東横線の沿線に育った都会者らしく「こんなにいろんなものに出合うようになるとは思わなかったわ」と感動してはいるが、どうも苦手であるらしい。

この人はまた、すぐに「キャー」と叫ぶ人であって一日に何回もどうでもいいようなことで叫び声をあげる。叫び声があがるたびに「まただよ」と息子と顔を見合わせるわけで、その叫びには僕らの心配を喚起する効果は既にない。

この間も、雨戸を開けながら「キャー」と叫んでいたが、どうせいつものことと相手にしないでいると、
「なぜ助けに来てくれないの?雨戸に蛙が潰れてるの」と訴えに来た。
「そう?」と無反応を示すと
「お願い!取って」と言うので
「自分でやれば」と言うと
一瞬考えて「200円あげるから」と言う。
「仕方ない」と見に行くと雨戸と雨戸の間で蛙がペチャンコになっている。
雨戸を閉める時に挟まれてしまったらしい。そう言えば、この間は同じようにバッタが挟まれてもいた。

蛙を取り、カミさんに「カエル代」と請求すると、渋々200円くれた。いいアルバイトである。
「これからも蛙を片づけたら200円ね」と言うと
「カエル代はカエル代だから、これからの分も今のでおしまい」と言う。
全くケチである。
「じゃあ、この間のバッタ代は?」と言うと
「そういうもの全部含めて今のでおしまい」と言う。
全くケチでしかない。労働に対する正しき報酬はあるべきではないか。

草取りをしながら、これはひょっとしたら「草取り代」がもらえるかもしれないなどと考える。と同時に、いやカミさんは絶対くれないだろうとも考える。

どうでもいいのだが、草取りは単純作業だから暇になった頭が勝手にいろんなことを考える。
お金って何?とか
草はなぜ生えてくるの?とか。
紫陽花の葉の上で惰眠を貪る蛙にお前の生きる意味は何だと問いかけてもみる。
そう言えば、切り立った海岸の岩に一本の松が生えていたりするが、あの松は何故あそこにああして生えているのだろうかと思う。生の深淵を見る思いがして神々しい。もし、何故?と問いかけたら、松は「海を見ているのさ」と答えるかもしれない。
それに比べ、草取り代200円をくすねようと気を揉んでいる自分はなんとミミッチイのだろう。ひょっとしたらこのカエルも、実は瞑想しながら思索に耽り、こんなオレのことをバカな奴だと思っているのかもしれない・・と思う。

自分の空想の中で勝手に自己嫌悪に落ち込みながら、ふと振り返ると庭がすっかりきれいになっている。昨日までと違い、すがすがしいほどであって、嬉しくなってみたりする。
そう、草取りの良さはこの具体性にある。やれば片づく、やった仕事の成果が確かに目に見える。この具体性が心地よい。人が賞やお金を目指すのも努力や苦労といった見えないものが形になって見えるからかもしれない。

僕らの日々の労働は、甚だ「見えない」。
砂漠に水をまくような取り留めのなさである。あえて言えば、納豆を200回混ぜると美味しくなると言われて200回混ぜてみたが、その美味しさを実感できないような感じである。
労働の証である賃金も今は銀行振込みになって全く実物も拝めなければ、ヒラヒラの明細以外は10円玉でさえ僕を経由しない。カミさんに「200円ちょうだい」などと言っている自分は一体何なのだろうと思ってしまう。

高校生も似たような悩みを口にする。
勉強しても自分に力がついたかまるで分からないし、根本的に勉強して何になるのか分からないと。
五里霧中の状態で、それでも勉強しなければならないのだから大変だろう。

どう励ませばいいかと思っていた時、「勉強するのにボールペンを使って書きまくりインクを使い切ったボールペンを努力の跡として並べていく、そんな方法がある」と同僚が教えてくれた。

この話を聞いて、なるほどと思った僕は、早速、生徒を使い実験を開始した。3年の担任であったので、夏休みの宿題として一人に10本のボールペンを買い与え「これを消費してこい!」と命じたのであった。
悲鳴や怒号がわき起こった。しかしそんなことに勘酌してはいられない。強引に押しつけ、9月を待った。ところが、油性ペンだったため「指が痛くなった」とか「インクが途中で詰まって出てこなくなった」などという訴えが尽きず、結局、失敗に終わってしまった。

改良が必要だと思った僕は、再び3年の担任になった時、今度は水性のボールペンを一人に10本買ってやり「これを消費してこい!」と命じたのであった。
悲鳴や怒号がわき起こった。しかし、そんなことに勘酌してはいられない。強引に押しつけ、9月を待った。素晴らしいのは生徒たちで、今度はこの無謀な宿題を全員が完璧にやってきた。
後ろの黒板にボールペン450本を並べてみたが、その様はなかなかの壮観で、これが努力の跡と思うとうっとりするほどの眺めであった。実験はかくして大成功に終わったのであった。

しかしこれには後日談がある。卒業後に話を聞くと思ってもみない事実が判明した。

「丸だの線だのグルグルガチャガチャ書くの大変だったよ」とか
その作業を「弟と妹にやらせた」とか
またある奴が「水につけておくとインクが溶け出していくんだ」と言うと
「お湯の方が速いぜ」などと言ってのける奴もいた。

したがって彼らのボールペンは努力の跡ではなく、ただひたすらインクを消費するための悪知恵の跡だったわけである。
「そんなことで頭を使う暇があったら単語の一つでも覚えろ。オレの小遣いを返せ」とカラになった財布をのぞきながら僕は思ったのだったが、今更ボールペン代を徴収するわけにもいかない。天を仰ぎ、血の涙を流しながら「もう二度とやらない」と固く胸に決意したのだった。

かくして、努力とは報われぬものであるという僕の認識は、いっそう深まった。
人生とは徒労や挫折の連続なのである。
だから、努力とは報われるためにするものではないという前提に立つ必要がある。そうすれば、仮に努力が報われた時、嬉しさは倍増するに違いない。成果や報酬を前提にすれば、努力は実らなければ意味のない重荷になってしまう。

以上、草取りをしながら考えたことである。きれいになった庭を眺め心地よい気分で煙草を吹かしていると、カミさんが麦茶を持って現れた。

「おっ。いよいよ200円」と僕は心の中で思ったが、カミさんは「ご苦労様。きれいになったね」と温かい言葉を残し、しかし、何のためらいもなくそのまま去って行った。

「僕の200円?・・◆♯○△%&」

カミさんにそう言えぬ僕は、ホウセンカの上で惰眠している蛙に、そっと、そう囁いてみたのだった。


■土竜のひとりごと:第137話

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