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猫のこと

今日は多分、わが家の猫の誕生日。多分、と言うのは拾い猫だから。
もっと言えば、今日は拾った日なので、絶対に誕生日ではない。

図書館に勤めていたころ、出勤するとカラスに追いつめられている子猫を数人の同僚が保護しようとしているところに出くわした。子猫は駐車場の石垣の縁に追いつめられ、必死の形相で、それでも果敢にカラスに対抗していた。逃げまどう猫はなかなか捕獲するのに苦労したのだが、それでも、にゃんとか捕まえて事務室の段ボールの中に収められた。

当然の事ながら、その日一日猫はニャーニャーと、か細い声で泣いていたのであったが、これも当然の事ながら、保護されたとはいえ、行き先はなかった。にゃんだか不憫に思われて、殆ど衝動的にこの猫をもらうことにし、雨降る東名を、膝の上に乗せて御殿場の家に連れてきたのであった。

図書館があったのは草薙の丘の上で、ここには県立大学や県立美術館、埋蔵文化研究所などがあって、この丘がひとつの学術の発信基地のようになっていたのだが、それにふさわしく周りの環境も整備され、広い芝生広場やそれに続く自然豊かな林によって周辺の人から愛される静かな空間を形成していた。
しかし同時に、その種の場所の宿命のように、そこは猫の捨て場ともなっており、捨てられた野良猫が多く見受けられた。可哀想に思った人がエサをやるのだが、それを気に入らない人が「猫にエサをやる輩を注意すべきだ」と図書館に苦情を寄せることも多々あったりした。捨てる人、エサをやる人、それを非難する人、人もいろいろである。
レイも、生まれて2ヶ月ほど、そんな捨てられた猫の一匹だった。

拾ったのが雨降る日だったので、レイン、女の子なのでレイと名付けることにした。僕は子どものころから猫を飼っていて、それなりに猫を飼うことには慣れていた。しかしその飼い方は非常に適当なもので、ゴハンは人間の食べ残しか、ゴハンにカツオブシをかけた、いわゆるネコマンマだったし、猫は勝手に家の中と外を往復し、寒くなると寄ってきて膝の上でまどろんだりもするが、基本的にはお互いかなり自由気ままに適当に付き合うというイメージだった。

しかし、カミさんは猫が家に来た日から猛然とこの猫の世話をし始め、キャットフードを買い、トイレの容器を買い、そこに入れる猫砂を買い、遊び道具を買い、籠を買い、果ては赤い首輪まで買って、およそ僕のイメージにある「放任」とは逆行する扱いを開始した。

病気が心配ということで、外にも出さない。野良猫だったので病気を持っているかもしれないと早速、動物病院に連れて行くと、おなかの中に回虫がいたということで、それも駆除された。生まれて2ヶ月ほどであろうとも言われ、またその他にもいろいろなアドバイスを受けてきて、それはカミさんによって手厚く実行された。

カミさんは以前から動物を飼うことに首を縦に振らなかったのだが、これが母性というものだろうか、いざ子猫を前にすると、僕にかけるお金よりも多額のお金をレイにかけ、僕にかける愛情よりも多大な愛情をレイにかけ始めたのであった。

確かにレイは可愛かった。白い毛に黒い模様がまじり、当初アメリカンショートヘアではないかと思われたし、顔立ちもなかなかの美人、いたいけで弱々しく、また寝る前には僕らの手をチューチュー吸いながら前足を母親のオッパイを押すように交互に押すしぐさは、捨てられた猫を思わせて何となく哀れでもあった。子どもというものは何でも可愛いものだが、その可愛らしさが、ちょうど2ヶ月前に息子が大学に進学し家を離れたカミさんの心の隙にスッと入り込んだと言えるのかもしれない。

しかし、そういう甘い思いはすぐにレイのもたらす現実によって、日々覆されていった。

しばらく経つとレイの体に茶色い毛が混じり始め、どう見てもアメショでないことが日に日に明らかになっていった。ネットをいろいろに検索した結果、さび猫であることが判明し、このさび猫というのは、丸まって寝ている姿が薄汚れたボロ雑巾が転がっているように見えるということで雑巾猫とも呼ばれているらしいこともわかった。可愛そうな名である。

顔立ちは美人だが、次第に持って生まれた気質であろう、なかなかな気性の強さを見せ始め、ちょっと気に入らないと顔を三角にして挑みかかってきた。人に飼われていた経験があるのだろう。噛むのも甘噛みだし、爪でかじるときにも、自制はきいているのだが、それでも手には結構な傷ができた。障子を破りまくり、何故か障子の桟に上ることに執着したために桟は折れ、襖や壁をかじり、一時期我が家は幽霊屋敷か廃墟のように荒れ果てたのであった。

次第に分別は出てきたが、いわゆるのんびりした猫のイメージはない。有り余るレイの元気を捨てさせるため、カミさんもやむなくレイを外に出すようになったが、水を得た魚のようにレイは限りなく野生化した。

鳩やネズミを捕まえてきては庭に死骸を並べる。カラスが高い木の上に止まっていると、一目散に木のてっぺんまで駆け上がって喧嘩を売る。狩猟の本能をむき出しにして生きていると言っていい。おかげで、家の中にはムカデもゴキブリも居なくなった。近所の猫とも仲良くしない。出会うと2メートルくらいの距離を置いて壮絶なうなり声をあげながら睨み合っている。

それでいて家の中では深窓の令嬢のごとく振る舞っていて、お腹が減ると皿の前に座ってカミさんを見て「ニャー」と鳴き、ドアを開けて欲しいときはドアの前に座って「ニャー」と鳴く。遊びたくなると、それこそ僕の目をじっと見つめながら「ニャー」と鳴く。背中を叩かれることに快感を覚えているらしく、叩いて欲しいときには、いかにも背中を叩けと言わんばかりに、横に来て静止している。

朝は5時頃には起きて、外に出せとカミさんの髪の毛を引っ張ったり、押入れから飛び降りてカミさんにタックルをしかけたりもする。要求に応えるからつけあがるのだが、何となくつい要求に応えてしまい、思わぬ「過保護猫」ができあがりつつある。

こいつのために家を空けて泊りに行くこともできなくなった。レイが避妊の手術のため病院に一泊したときには、これ幸いと箱根の温泉に出かけたが、それっきりである。

その時でさえカミさんは、レイは大丈夫かと気が気ではにゃい様子だった。帰りが遅いと川にでも落ちたのではにゃいかと心配し、道で車に轢かれている猫を目撃してきた日には、気を付けるようにレイに言い聞かせている。猫ブログを見ることを日々の楽しみとし、猫の置物を飾り、猫の本を買い、猫用品のショッピングに心を奪われ、我が家のデジタルカメラには猫しか写っていない。カミさんは殆ど猫に占領されていると言っていい。

しかし、当のレイはどこ吹く風。レイはレイタン。それがまたクールでいいらしい。

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