見出し画像

男女平等について思うあれこれ

最近セブンイレブンのトイレについて考える。

朝は勤務時間に間に合わせなくてはいけないのでそれなりに気ぜわしいものだが、セブンイレブンのトイレに立ち寄ると、大概の店でトイレは二つあるトイレが、「男女兼用」と「女性専用」に分けられていて、「男女兼用」が空いていないと、男である僕は「女性専用」を使うわけにはいかない。

すぐに空けば別に何とも思わないのだが、時間のかかる人もいる。5分待っても出てこないケースもある。朝の5分はそれなりにシビアな時間である。お店の人に「こっち(女性専用)を使ってはダメか」と問うても「ダメ」と言われる。諦めることが多いが、「もれちゃう」みたいな緊急事態の時は許されるのだろうか?

イベントなどでは女子トイレの前に大行列ができているのも知っているから、それなりに女性への「配慮」はしなくてはならないとはわかっているのだが、「女性専用」は空いているのに、5分待った末に「男女兼用」から出てきたのが女性だったりすると、どうしても疑問符が頭に点灯してしまう。「男女兼用」が二つあればいいのではないか?と。はたまた、これが女性が男と同じトイレを使いたくないという事情からそうなっているのであれば、「男性用」と「女性用」を一つずつ設けるのが「男女平等」というものではないのか?と。

都市部に行くと、電車に「女性専用車両」というのがある。これは痴漢行為を働く悪しき男がいるから止むを得ないのだろうとは思う。ちなみに「男性専用車両」というのはない。あったら不気味かもしれない。それを選んで乗る男はどんな男だろうかと考えてしまうが、痴漢の冤罪を防ぐためには「男性専用車両」もあっていい。
古来、「ないことの証明」は困難だと言われるが、痴漢をしていないことを証明するのは至難の業である。電車を降りる時に「この人、痴漢です」と女性に腕を掴まれた瞬間に有罪は確定してしまう。かつて退職が近い同僚は、「俺は電車の中では常に両手をあげて吊革なんかを掴んでいる、つまり万歳しているよ」と言っていた。退職金を一瞬でフイにしないためである。しかし、果たして「女性専用車両」とは「男女平等」なのか?

女性についてはその男性との差異から「区別」する必要がある(と言っては言葉が悪いかもしれない「差異性」の認識である)。それはひとつの正しい認識だろう。
例えば、男女雇用機会均等法というのが、僕が就職して間もないころの1985年にできた。働く女性にとって、「男と同じように働ける」というのは大切なことである。しかし、その時、職場で言われたのは、「男女雇用機会均等法が施行されたため、これからは通勤距離も勤務形態もすべて男性並みにします」、つまり女性に対するこれまでの「配慮」はやめるというものだった。うろ覚えの不確かな記憶ではあるが、「これはひどい。改悪ではないか」と思った記憶がある。

これが男女平等なのだろうか?「差別」があるのは紛れもない。ここ最近では医大の合格が性別によって操作されていることが問題になった。女性は出産や育児があり、医者として働ける時間や期間に制約があって、多忙を極める現場としては看過できない現実的な問題だという理由である。合格自体を非公表で差別することは紛れもない差別である。
ただ、現場という立場の申し訳も考えてみるべき材料ではないかとも思う。女性が「男と同じように働く」ということはどういうことなのか?そういう言い方自体が「男社会」に依拠した考え方なのではないかと思ってみたりする。

「男社会」も紛れもなく残存している。例えば数年前、京都舞鶴市で行われた大相撲春巡業での挨拶中に突然倒れた市長の救命措置で駆け上がった女性に、日本相撲協会側が「女性は土俵から下りてください」とアナウンスをしたことが大きな波紋を呼んだ。なんと愚かなことだろうと思うが、これがなんと2019年のことである。

それ以前にはこんなこともあった。平成2年(1990)女性初の内閣官房長官が土俵で優勝力士に総理大臣杯を渡すことを希望したが、相撲協会は認めなかった。女性差別ではなく土俵は裸にまわしを締めて土俵に上がる力士にとって神聖な場であり「そうした伝統を守りたい」という説明だった。
もっと単純に誰が言ったかはこれもうろ覚えだが、「そういう世界もあっていい」という言葉があって、そのときのその言葉は妙に説得力のある言葉のような気がして僕の記憶に残っているのだが、この「そういう世界もあっていい」という言葉について女性がどう考えるのだろうか聞いてみたい気もする。

例えば、僕の高校の母校は旧制中学が前進であったため校歌には「男子(をのこ)の気噴(いぶき)吹き明(あか)れ」というフレーズがある。これは現代にそぐわない「伝統」として変えるべきなのだろうか?

性差が消滅しつつあるという現状もあるか?「男」が草食化して「男子」となり、大人の「女性」が自分たちの呼称をあえて「女子」として少女化することで「女」であることから自分たちを解放しようとしているかに見えもする。

「男」と「女」とは何だろうか?

考えてみなくてもいい問題かもしれないが、男女平等ということについて考えるとき、そこを棚上げして考えていい問題ではないような気もする。あるいは、「区別」なのか「差別」なのか?「伝統」なのか「因習」なのか?ということも。

例えば「ノーマライゼーション」が「配慮」ではなく「普通」を目指すなら、いたずらな「仕組み」が男女平等を達成できるとも思えない。もしそうなら、そこに必要なのは、もうひとつ上の「人間」という括りにおける「マナーの感覚」かもしれない

いずれにしても、大事なのは「問い続ける」ということなのだろうと思う。それはケースケースで考え続けるしかない、問い続けることにしか結論を見いだせない問題である。その時、大事にしなければならない「感覚」は、「どんな高邁な理念も一律に作動しえない」ということであって、男女平等という当然達成されるべき理念であっても、それを全ての場合に一律に敷衍してはならないという考えに立ち戻る姿勢なのであろう。ひとつ枠でくくり得ない、わからないことばかりが、実は世の中には満ちているのだということに気が付かなければならない。

セブンイレブンのトイレで、それが空くのを待ちながら、僕はそんなことを考えてみる。方や、イベントの会場で混雑する女子トイレを避けて、いとも平然と男子トイレに入って用を足すオバサンもいる。愚かなことを口走るが、いっそのこと男も女もみんな「野糞」することにすれば「平等」は達成できるかもしれない。
でも、それを覗こうとする「男」がいて、それを恥ずかしむ「女」がいる。だから「配慮」が生まれ、守るための「制度」が生まれる。
世の中とは、かくもややこしいものなのである。

■土竜のひとりごと:第207話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?