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第70話:夫婦という「空気感」

随分昔の話であるが、僕らが結婚した当初、僕らにはテレビがなかった。正確に言うとテレビはあったのだが、何の理由かそのテレビが映らなかった。それでつれづれな夜はラジオを聞いて過ごしていたのだが、これが意外になかなか楽しい日々だった。

今思い出せるのは太川陽介と榊原郁恵がやっていた音楽番組と一週間か二週間の長さで毎晩語られる連続物語である。いくつかを毎晩楽しみに聞いていたのだが、今となっては覚えているのは“肥後の石工”という話くらいしかない。その内容さえ今はほとんど覚えていないのだが、最終回を何かの外出で聞き逃していたく残念に思ったような記憶もある。

ともかくもなにがなく“肥後の石工”という言葉を思い出すたびに、陽当たりが悪くてやけにカビ臭かった3LDKの平屋や、そこでスタートした僕らの新婚生活までが、ふーっと思い出せれたりするのである。

その後、我が家にはテレビが定着し、結婚生活も、その間、一児を設けた。倦怠期を迎えているわけではないが、やはりテレビというのは人の会話を消す種とはなるようではあり、ついこのあいだもウチのカミさんが僕がナイターなんぞを見ていたら、突然僕の眼前にニョキッと顔を出し、「ねえ、あなた」と声をかけて来た。

「何?」
と答えると、
「あのー、私、いるんですけど」
と妙なことを言う。
「ああそうだね」
とカミさんの顔をよけながら、なおもナイターに目をやっていると、よけた僕の顔の前に再び立ちはだかって、
「あのー、私、ここにいるんですけど。何か声でもかけてみようかなって、そんな気にならない?」
など聞いて来る。

「ああ別に」
と巨人の勝敗の行方が気に掛かっている僕がうっかりそんな話をすると、
「あっそ」
と急に語調が変わる。
「これはまずい」と人情の機微に通じている僕はとっさに思い、例によって訳の分からぬ言い訳などしてみるが、
「あなたはそうやっていつも一生懸命テレビを見て、私のことなんかこれっぽっちも頭の中にはないのよね」
と決まってカミさんは言うことになるわけである。

僕は別にカミさんのことを忘れているわけではなく、空気のように非常に自然な存在として常に思っているのだが、とりあえずカミさんは、空気=無関心=どうでも良い、としか考えてはくれない。

「5年も経つとそうなのよね。どうでも良い空気なのよね」
とカミさんは言うのだが、僕はもともと口数が多い人間ではないし、最も身近な人に対しては極端にその口数が少なくなる傾向がある。それで気持ちは通じているとこちらで勝手に思っているような所はある。

ところで、人はまたおかしなことを言うと思うかもしれないが、カミさんと過ごしていて、時々ふと「何故この人がここにいるんだろう」と思うことがある。
子どもも「こいつって何だ」と思ったりもする。
これは不思議な感覚である。

カミさんにもそういうことがあるらしく、
「何故あなたはここにいるのか」
と問うと、
「そうよね、私も何故あなたとこうしているのか考えているの」
と言う。
妙な夫婦である。

「不思議よね。土屋君」
などと、いやみっぽく結婚する前の呼び方で僕の名を呼んだりするのだが、これはいわゆる倦怠感というやつとは違って、じゃあオレは何故ここにいるの?っていう訳の分からぬ難問に突き当たるのと同じ難問である。

人間ていうのは実に微妙で、その微妙な何かの上にのっかりながら、結構図太く関係をつないでいるものなんだなんて気がしたりする。

テレビを見ていると、最近はカミさんが眼前に顔を出しその存在を主張するのと同時に、オレもここにいるぞとばかりに息子が視界に入って来る。
大ブタ、小ブタの顔を見ながら、オレたちはやっぱり確かにここにいるんだなぁと、また妙なことをしみじみと考えてみたりもしたのであった。

もう昔々の話である。

(土竜のひとりごと:第70話)

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