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与えられたもの 与えたもの


身の回りを見ると与えられたものしかなかったことに気付いた。

今着ている服、机、そこに置かれているペン、目に入るもの全て、自分が生み出したものは何もなかった。

今朝食べた朝食にしてもそうだ。そもそも野菜を一から畑で育てたことすらない。いや、畑で野菜を育てても、自分がその野菜を生み出したとは言えない。

だって、土、水、空気、太陽光、それ以外にも色々な要素がなければ野菜は育たない。そして、それらの要素は地球や太陽から与えられているものであって、自分で生み出したわけではない。

もっと言うと、自分の身体ですら、自分が生み出してはいない。それは神のなせる業、もしくは摂理、そういうものによって生まれている。

自分が人に何かを与えたとき、例えば、料理を作って振る舞ったとして、それを相手が当たり前のように食べて無言で去って行ったらどう思うか?

私たちは日々あらゆるものを与えられ続けている。それに対して感謝する場合と、当然と思っている場合とがあるように思う。

当然と思ってしまう原因は、与えられていることに気づいていないか、気づいていても当然と思っているかのどちらかだろう。

地球が与えてくれている恵みを当たり前だと思って生きてきた人類が、今直面させられている問題。それが環境問題ではないだろうか。

私たちは地球に恵みを与えられ続けてきた。その与えられた恩に報いる形で私たちは何かを地球に与えてきただろうか?

むしろ、環境問題を誘発するようなものを私たちは地球に与えてきたのではないだろうか。

そうではなく、与えられたものに見合うだけのものを、私たちは地球に与えることができるだろうか?

与えられているものが大きすぎてとてもじゃないけど返せない気がする。でも、与えられていることを当たり前と思わずに、感謝の気持ちを持つことはできる。

そして、その感謝の思いだけが、私たちが地球の恩に報いる形で与えることができる唯一のものではないだろうか。

一人の感謝の思いは小さくとも、70億人が感謝の思いを持って、そして、その感謝に基づいて行動していったとき、結果として環境問題は解決していくのだと思う。

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