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「ジャーナリングが楽しくなってくる感覚」とは

ジャーナリングをしていると、楽しくなってくる時がある。
ジャーナリングは「書く瞑想」とも言われているように、瞑想をしている時と同じ感覚があって、それを味わい始めると静かに楽しくなってくる。

それは、「自」と「他」の境界線が溶けて、あいまいになっていくような、はっきりしない中で没頭している時に起きる感覚だ。
「自」というのは「自我」のこと。これが「私」だと自覚しているもの。
その「自」が書き進めるうちにコントロールしようとすることを手放し、本来の受け身の観察者としての役割だけに戻っていく。
自他があいまいになった世界は宇宙のようにとても壮大で、そのエネルギーは私の手を通して紙へと降ろされていく。

そして、自分の中ではっきりしていなかったことがスッキリとまとめられたり、思いがけないアイディアをもたらしていたりする。

静かに楽しくなってくる時の感覚としてもう一つ。
それは、繋がっている感覚だ。
その紙に書き綴られている言葉たちは一体どこから来たのだろうか。誰からの言葉だろうか。
この境界線の無く没頭した中で、もはや「私」が書いているという感覚ではなくなっている。だからといって一方的に誰かに「私」が書かされているという感覚でもない。
何かと繋がりながら、それと自分も並走しているかのような、時には対話をしているかのような感覚で言葉が紙に降りていく。


いつもこんなふうに楽しい感覚で出来たら良いけれど、一度味わったあの感覚をもう一度同じように味わうことはできない。
同じようにと考えてしまうと、「自我」がなかなかコントロールを手放そうとしてくれないからだ。

全てを手放し委ねた先に、ジャーナリングの楽しい感覚を味わうことができる。その結果、上手くいったと思える振り返り(読み返し)ができる。


瞑想とジャーナリングの違いは、その楽しい感覚のエネルギーを素直にコントロールを手放した「自」が味わっているか、それにプラス文字化しているかだ。
静かに楽しくその感覚を味わえることが、この2つに共通した良さだ。

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