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くたかコラム:宮城ニワタリ神社巡り⑤

くたかコラム
 上海アリス幻樂団様が制作した弾幕STG『東方鬼形獣』に登場するニワタリ神、庭渡久侘歌について、あれこれ調べたり想像したりしたことを書き留めておきます。Twitterで呟いたことをまとめることも。

宮城ニワタリ神社巡り
 久侘歌についてあれこれ想像しているうちに「やっぱり現地に行って実際にニワタリ神社の雰囲気を体験することも大切なのでは?」と思い立ち、実際に行ってみました。
 巡ったのは宮城県内のニワタリ神社16社(+福島県内の2社)です。全6回を通して毎回3社ずつ、現地で気づいたことや想像したことなどを報告予定です。

 沿岸部の残り2つ、そして住宅地の中のニワタリ神社をお送りする5回目です。

⑬二渡五十鈴神社 女川町竹浦

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 こちらは五十鈴神社と習合されたらしいニワタリ神社です。五十鈴神社に関しては知識が無いのでナニモイエナイ状態。
 扁額は二渡五十鈴神社だったのですが、Googleマップでは庭足神社。庭足の字を使ったニワタリ神社は、現在確認できている宮城県内の神社ではここだけのはずですね。珍しい。

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 二渡と五十鈴、両方の字が入った扁額です。装飾も色鮮やかで綺麗でした。境内は手入れの行き届いた綺麗な神社、という様子でした。
 また、たまたま社の中にあるものが目に入ったのですが、水滴を象ったような形状の置物が祀られていました。他のニワタリ神社でも見かけたような記憶があるので、ある一定の神社で共通したシンボルなんでしょうか?
 神社は大体建物の三階くらいの高さはありそうな位置にありました。階段を登るだけで息が上がる高さです。沿岸部にあるため「ここまでは津波で浸水した」といった表示が神社に登る階段の途中や、周囲の土地の至るところに設置されていました。神社の拝殿の正面には「この場所まで登って津波から難を逃れた」と記録された石碑もありました。
 高台に本殿のある神社、というのは沿岸部のニワタリ神社で特に顕著です。その特徴は、古来から続く、いざという時のために安全な場所を示す伝承の一種なのかもしれないと思いました。

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 こちらは境内、社に続く長い階段の途中、横手にあった山林のような斜面の中に見つけた祠です。一見、木々が生い茂り通路も何もない斜面の中に祠が二つほど紛れている、という光景で、近づくのは困難かなという状態でした。しかし斜面を観察してみるとどうにか近づけそうだったため確認のために近づくと、どうも二つとも稲荷系の祠のようでした。
 境内の斜面の途中に祠というのは『⑧二渡神社 石巻市福貴浦』でも確認されていて、稲荷系と関係するニワタリというのは『⑤三輪足神社 美里町成田』で確認されていた特徴ですね。
 境内をよくよく見てみると思わぬ発見がある……というのは、各神社を巡っていく中で自然と覚えていったのですが、それが楽しみにもなっていました。

⑭二渡神社 南三陸町戸倉

 えー、こちら⑭ですが……。現地近くには行ったものの、別の神社をニワタリ神社と勘違いして、巡った気になっていました。すみません巡れてなかったです! という訳で今回は欠番です。

⑮二和多利神社 多賀城市笠神

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 こちらはいままでのニワタリ神社から打って変わり、住宅街の中にあるニワタリ神社です。普通の住宅地に突然この写真の石碑がある、という様子です。
 土地自体が高低差のある場所でしたが、その中でも高台に位置しています。この石碑の場所から少し坂道を登ると左手に鳥居と社が見えてきます。ちょうど参道のような感覚で、出店の代わりに住宅がある、みたいな印象でした。

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 坂道を登った先にあるのがこちら。住宅地の開発に馴染みながら寄り添い続けたニワタリ神社、という様子です。境内はよく整えられていて、石碑などにも一つ一つ注連縄がかけられていました。修繕もされているのか、真新しいものも多かった印象です。
 石碑として神社の由緒もしっかりと残されていました。元々は元応元年(1319年)に笠神村の邑人らの病門守護のために勧請し、仁和田里権現社と称したそうです。その後神仏分離や戦争など時代の変遷もあり、他神社との習合なども経つつ今の形になったとか。こういった記録が石碑として用意されているなど、なんだか全体的に地域の方の力の入れようがうかがえる神社でした。
 由緒として興味深いのは『病門守護のため1319年に勧請し仁和田里権現社と称した』という点ですね。病門は裏鬼門のことで、病気そのものではなく、縁起の悪い方角、という意味合いが強いようです。ニワタリは元々水配の神様としての側面があったと考えられていますが、元応元年の時点では仏教や陰陽道としても意味のある存在に変化していたということなのかもしれません。
 ニワタリ神には百日咳(文政年間、1818年から1831年に日本で呼び名が定着)治癒の信仰があったというのも資料で確認でき、水配の神様だったニワタリは、時代と共に人々を守る神様に変化していったのだろうなあと推察されます。

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 境内には本殿の奥左右に一つずつまた別の社があるなど、広さも相当なものでした。
 その中でも個人的に気になったのはこれ。丸い石の山のようなものです。丸い石は『石≒セキ≒咳』として、喉に関わる病気の治癒の信仰対象になっていたそうです。ニワタリ神社も鶏権現として百日咳流行の際には咳治癒の神様(仏様)として信仰されていた様子もあります。ただの庭飾りなのかもしれませんが、もしかすると何らかの信仰の対象だったのかもしれません。

 という訳で第五回目の報告はここまでになります。
 前回の報告から実に半年以上開けての投稿となりました。本当にごめんなさい。名華祭とか例大祭の新刊を準備していたら、どうしても作業が追いつかず……。
 コラムの内容に関しては、ニワタリ神社巡りをした際に取っていた手記を基にして書いているので、ほぼ間違いなどは無いはず……なのですが、手記に書き忘れていた情報が抜け落ちている可能性があるのが歯がゆいところです。
 なんだかんだ宮城ニワタリ神社巡りからあともう少しで一年。その前には最終回まで書き上げたい所存です。

 なお、ここに挙げた情報は、あくまでも外の世界ではこんな記録が流れているよー、程度のものです。真実が何であるかは知る由もありません。
 あなたが幻を視る一助になれば幸いです。素敵な幻想郷ライフを。

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