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なんとなくバラバラと書き連ねる

届けたい言葉をながめる。
具体的なことばにすると説教臭くなってしまう。なかなか難しいので軽やかさというものが必要だなと実感している。重さと軽さはいつもついてまわっていて、軽さは一朝一夕に出せるものではない。キャラクターもあるけど、どのあたりのバランスがベストなのか探るのは自分のことを見つめ直すよい機会なのかもしれない。あいてにとってもじぶんにとってもここちよい場所を今調整している。

言語化、視覚化がとかく優先されがちで文面や記録にないものはないものであるかのようにあつかわれてしまう。それって今始まった話ではなくて、もともと見えないものは評価とか、共有することが難しいから評価とか数値という世界線で生きていくことができない。今いる世界線と違う世界の話をわかるのはまあ簡単じゃない。仲間とか家族とかいうなかでも、話が伝わらないことはある。歳を重ねるほど枝分かれしていく世界線がかさなることはなかなか難しい。
だからこそ、原点や普遍的なものに戻ることが必要なのだと思う。

昨日、同性婚を認めないのは違憲だという訴えに対して合憲だという判決が出て、ショックだった。個人的に何がショックかというと、家族のカタチがある一定の枠組みじゃないと認められないということだからだ。
男性と女性の生殖目的の関係を育むことを何よりも優遇します、という意思だ。それ以外の家族は憲法も法律も守らない国。それが日本ということが恥ずかしい。じゃあ合憲のところに、守ってくれるところに引っ越せば?というお決まりの意見がでてくるのだけど、これはずっとひっかかっている。居心地の良い場所、認められる場所に住みかえることは、一時的には心が穏やかになるけど、なにもかわっていないという無力感を抱き続けることになる。それは故郷とか地元であればなおのこと、戻りたくなくなるし、こころの距離はどこに住んでいても結局変わらない。
のれんに腕押し、変わらないところにそれでもなんとかして欲しいと訴え続けること、声をあげ続けることは疲弊する。だから、私は声をあげ続けている人たちが、こんな活動をしなくてよい日が1日も早く訪れることを祈っている。心がボロボロになってしまう前に。
同性婚がまず最初の一歩でいろんな形の家族が認められる。夫婦別姓もそうだし、それこそ生殖を目的としない家族のありかたもあるし、現にその生活を営んでいる人もいる。そうして互いに助け合い、責任を分散していくことが、未来につながると私は信じている。

わたしができることはと考えるけど、まずは意思をつたえることかなと。
そして、やろうとしていることは何なのか、めざすことはなになのか。今もなおじたばたしながら探している。

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