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くし切りと輪切りってなんですか?


昨日、飲食店のキッチン担当の人に「くし切りと輪切りってなんですか?」と聞かれた。正直、目の玉が飛び出るほど驚いたのだけど、確かに名前など知らなくても実際に切れているなら問題はないのだ。知っていても切れない方が業務に差し障りがあるのだから、行動が先んじていることに問題は発生しない。しかし、言葉が先んじていて、行動がともわない時には周囲に障害や葛藤がおきる。

そういえば、あたまでっかちということばをあまり聞かなくなった。あたまでっかちとは知っていることは一人前だけど、行動は伴わない人のことだ。
あたまでっかちなひとが増えてしまうのは、学校教育の弊害のひとつだろう。勉強しない方が社会に馴染みやすいのは行動と知識がそれほど乖離しないからだ。学校の勉強はよい点数を取るためで、知識を得て、テストでよい点数をとる方法を教えてくれる。しかしそれを活用するのは別の方法論が必要になってくれる。実際の行動と知識が分離していると、言動一致するのが難しく、大人になってから困ることになる。

だから勉強しないで良いというわけではない。学校の勉強だけではどうしようもないということだ。勉強は私にとって本を読むということで、知らないことを知ることだった。でも「使える」ように解釈して本を「使う」ことが必要だったなって思う。そのぶん、実用書と呼ばれる料理本や手芸本はやることが直結している。私は知らないことを知ったり、物語に身を委ねることで何を得ようとしていたんだろう。娯楽以外に、自覚的にまなぶことができたのは、読解力であったり文字に対する苦手意識がないということだったのかもしれない。

そう考えたら学校教育はアウトプットの目的が点数評価しかないことがやっぱり問題じゃないだろうか。点数に反映されないことはやらないという世界線を生み出す。誰かの希望する意図に従って点数を取るために勉強する。自らが自分で生きるために勉強するのではなく、意図に従って点数を取るためにインプットしてアウトプットをする勉強していた。手段が目的化するとはこういうことにほかならない。
若くて新鮮な脳がある時期に、誰かの意図に従ってインプットに偏るのはもったいない。自分が自分で学んで身につける方法を探す時間が持てないということはかなりの損失だ。トライして、改良してまたアウトプットする。自分の意思に従ってインプット⇄アウトプットを繰り返す訓練をすることが必要だったのだ。
日本は社会人になってからようやくアウトプットを求められる仕組みになっている。でもそんなことは無理だ。日本人は英語の勉強をしても使えないのは自分の意思に従って学んだことじゃないからじゃないかな。誰かの意思に従ったインプット⇄アウトプットを評価されてきたのに、だ。
日本は地理的に孤立しているからしかたがないこともある。そして、違う文化や価値があるものとは別々に過ごして、お互いに干渉しない慣習もある。だから、本来の目的、自分自信をアウトプットする機会をつくるとしたら、あえて異文化に飛び込むことだ。異文化に飛び込むこととは、あえて快適じゃない場所に出向くことだ。快適ではないので腰は重い。しかしチャレンジしていくことで自分を発見していく。
現在の教育であたまでっかちになりたくないなら、知識を入れない(学校の勉強をしない)ことは一つの生きる知恵だ。実際の行動がすべてというシンプルな世界線で生きていけるし、自分のためだけに時間が使える。
しかし、現実問題とし知識は入ってしまう。いれてしまったら後戻りはできない。その知識を一旦置いておいて、自分の勉強力を取り戻すためにはあえて違和感のある状況に身を置いて、身体で覚えていくことが必要になってくる。自分の身体を実験台にすること。リスクを負わずに成長をしようとするのは虫が良すぎる。



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