声に出してよんだら実感できる単純さ

勉強にもなるし楽しみにしてくれている方々がいるのでものすごくありがたい。本屋ルヌガンガさん、いつもありがとうございます。

「ロボット」ときくと、ブリキのおもちゃとか金属製の姿を想像してしまったのだけど、実はチャペックの「ロボット」は「工場で大量生産できる労働者」のことだった。すなわち人造人間のことで、レプリカントとかアンドロイド、ヒューマノイドに近い。
人間の労働力をできるだけ安価に大量生産する目的で、人間から労働に必要ない機能だけ(主に感情や表情の変化、生殖機能など)を全て抜き取ったものが「ロボット」で、その工場の名前がタイトルの「RUR」だ。

カレル・チャペックは満員電車の中ですし詰めになっている人々を見てこの発想を思いついたと言うのを知って、現代の話かなと思うほど。もちろん初演は1921年なので102年前。満員電車問題は未だ解決せず。
メインキャラクター設定が全てシンボライズ、アイコン、象徴であって、役割を演じているのであって人を演じているのではない。もちろん、演出によってはしっかり人を演じてもらってもよい余白が残されている。
ドミン=指導者
ヘレナ=女性
ブスマン=経営、金銭管理担当
私はこういう劇作に親しみを持つことに気づいた。人を描くことがそんなに得意ではないのは、こういう象徴化された人間設定がすきなせいかもしれない。社会を描くことを優先するのであれば、人はだれもが役割を担っている状態だ。社会で生きていくために、個人を優先することは許されないまでもある程度象徴化しているのだ。

百年経って、今は変わってきているのかもしれない。当時ほどの役割意識や象徴化は現代に置き換えると当てはまらないこともある。

これからはアイコンチックなものとは違い、どういうことがよいのか、といえば、アイコンから抜け出した自分も解放すること、という結論になるのかもしれない。そうなるためには社会もかわらないといけないし、それにしたがって人もアウトプットを変えるのかもしれない。

なんにせよ日常生活で演じなくてもお給料をいただけるのであれば、演じる必要などないのだろう。そういう意味ではだれもが演じることによってお給料をもらっている。そのことに気づいた作品だった。

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