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論語と算盤ー現代語訳ーを読んで

夫の積読を整理していて、読んでみたかった本が出てきたので読んでみた。
勝手なイメージで経営学についての何かが書いてあるのかと思っていたら、教育について「これ今と変わってないじゃん!」ということが沢山書いてあって、そっちのほうが面白かった。

この本は、前置きにもあったけど渋沢栄一が書いた本ではなく「論語と算盤」の中から重要な部分を選んで現代語訳にしたもの。
その理由は、本書の中で語られている「(論語を小難しく捉えようとする学者は)口やかましい玄関番のようなもので、孔子には邪魔ものなのだ。こんな玄関番を頼んでみても、孔子に面会することはできない」と指摘されていることにならって中学生でも気軽に渋沢に会えるように魅力を知ってほしいから。とある。

ので、ぜひ漢字が読めるのであればこれを子どもにも読んでほしい。
学校のあり方や世の中の仕組みについて、真理をついている事が書かれている。

「逆境には2種類ある」

人の作った逆境と、人にはどうしようもない逆境。
人にはどうしようもないものは、立派な人間が真価を試される機会であって「自分の本分」だと覚悟を決める時である。
これは三国志でも度々劉備玄徳はじめ、数々の武将も陥っては生き延びたり命を落としたりした数々の逆境をみても納得できる。
どうしようもない時は全力を尽くし、あとは 天命を待つ。

一方で、人が作った逆境の場合は他の誰でもない、原因は自分にある。
しかも自分で作ったものが人を介して自分に降り掛かってくる。逆境を招いてしまう。
蟹穴主義、カニは甲羅に似せて穴を掘るという主義で「己を知る」事が大事になってくる。

これは、斉昭公や上杉鷹山などもそうで、藩主になったからといって通例通り豪華な食事や衣装に身を包むことはしなかった。
それは藩が貧しかったこともあったし、喜怒哀楽のバランス、走りすぎず溺れすぎずという誠実さを忘れないようにしていたからかもしれない。

「わざわいは得意な時にやってくる」

得意な時は誰でも調子にのってしまう傾向があり、わざわいはこの欠陥に喰いいってくる。

光圀公が「小さな事は分別せよ。大きな事には驚くな」という言葉を残している。
得意なときほど小さな事を蔑ろにし、失意のときには些細なことにも気を配る人の心理をみて、些細なことが大きな事となり、大きなことが予想に反して些細なことになる場合もあるからその性質をよく理解することがよい。
「名声とは常に困難でいきづまった日々の苦闘の中から生まれてくる。失敗とは得意になっている時期にその原因が生まれる」
だから、得意なときにも調子に乗ることなく「大きな事」「些細なこと」に対して同じ考えや判断を持って望むと良いのだ。

「自ら箸を取れ」

青年たちの間には大いに仕事をしたいのに、頼れる人が居ないとか応援してくれる人が居ない、見てくれる人が居ないと嘆くものが居る。
もしその人に手腕があり、すぐれた頭脳があれば若いうちから有力な知り合いや親類が居なくても世間が頬って置かない。
もともと人の世には人間が多すぎて、人材登用のお膳立てをして待っていてもその箸を取るかどうかは人の気持ち次第でしかない。

かの木下藤吉郎(のちの秀吉)は、貧しい身分から身を起こして関白となったが、それは自分で箸を取って食べたからだ。
「何か一つ仕事をしてやろう」とするものは自分で箸を取らなくてはいけない。

およそどんな些細な仕事だったとしてもそれは大きな仕事の小さな一部。
大きなことは微々たるものを集積したものだから、些細なことも軽蔑することなく勤勉に忠実に、誠意を込めてやり遂げる事が大事なのだ。



ここから、利益への追及という話になって商工業者の道徳の考えが乏しいのはどうしてか?と続く。

江戸時代に定着していた「人民とは政策に従わせれば良いのであって、その理由まで知らせてはならない」という考え方。
これは儒教の中でも朱子学を信奉する林羅山の家系が明治維新までの幕府の教育権限を一手に握り、治められる側にいた農業や工業、商売に従事する生産者たちは道徳教育とは無関係に置かれ続けてしまった。

元は朱子という人物が、大学者というだけで自分で実践するタイプではなかったし社会正義のために現場で苦労しようとはしなかった。
だから、孔子や孟子のいうところの「民」つまり治められる側の一般民衆は上からの命令を素直に聞いて、課せられた仕事や行事をサボらなければそれでいいといういじけた根性に馴染んでしまった。

しかも欧米からの新しい文明は、日本のそういう風習をいいことに利益追求の科学に向かわせてしまって悪風はいよいよ助長されることになったのだ。
豊かさと地位は「人間の性欲」ともいうべきで、道徳や社会正義のないところに利益追求の学問を教えてしまうと火に油でその性欲を煽るようなもの。結果は初めからわかっていたことである。

「昔の青年は意気もあり、抱負もあって、今の青年より遥かに立派だった。今の青年は軽薄で元気がない」

と言ってるが、これも本書で言われている時代は明治。
令和である今でも言われているんだから、この嘆きはいつも変わらないんだろう。

そもそも、明治維新前の「士農工商」は極めて厳格で、昔の上流と言われる人たちが受けていた教育と一般町民の教育は違っていた。
一般町民は身近でわかりやすい九九や加減上限、実語教などで、上流では中国古典の教育を受けたもの。
一方で体を鍛えて、武士的な精神を奮い立たせたのだ。
これは、斉昭公の弘道館にも言えること。

今は(というのは本書が書かれた頃)階級のない平等な社会で、地位や収入など関係なく皆同じ教育を受けている。
昔は少数でも偉い者を出すという天才教育だったが、今は多数を平均して教え導いていくという常識的教育になっている。

昔の青年は良い師匠を選ぶということに苦心していて、門人になるまで三日間その軒先から動かないということもあり、良き師匠を選んでその学問を習い、徳を磨いていた。
ところは現代はというと、師弟関係など見られず逆に学校の生徒などは教師を批判し評価し、教師の方も自分の教え子を愛していない嫌いもある。

「親を大切にして目上を敬う人間が、上のものに逆らうことはめったに無い。上のものに逆らわない人間が組織の秩序を乱すことはありえない」
「昔の人間は自分を向上させるために学問をした。今の人間は、名前を売るために学問をする」

と論語に言葉がある。

その結果が、今の令和の姿なんだろう。
物が増え、当たり前が潤って、じゃあどう生きるか?を問われている。
学校に行かない、色んな理由はあれど義務教育から離脱している子どもが増えるのは自然の流れかもしれない。
でもそうした時にそんな子どもはどこで学ぶのだろうか?

また、本書の中で最後に、女性の天職とも言える子供の育成とはなにかについて書かれている。

女性の教育を無教育だったり馬鹿にしたような扱いだったりせず、女性を教育し道徳を育むことで間接的に善良な国民を育てるもととなる。
貝原益軒の「女大学」が大部分を占めるような女性教育では女性は慎ましくあれ、純潔であれ、従順であれ、細かい目配りを利かせろ、優しく美しくあれ、耐え忍べ。ということが重視されてきた。

今はどうだろうか。
この件に関しては、今の令和では女性の進化は目まぐるしく変わってきたように思う。

その上で、本書では今の(当時の)中等教育が弊害になっているように思うとある。
単に知識を授けるだけで道徳を育む方向性がかけている。
数多い科目の修得ばかりで時間が足りず、よそ見をするヒマもなく人格や常識を身につける努力などできない。

人材育成でいうと昔の寺子屋のほうが上手く行っていた。
今より教育の方法は極めて簡単だったが、皆似たりよったりではなく各々得意とするところに向かって進むので十人十色の人材に育っていった。
今は教育の方法は素晴らしいが、精神を履き違えて「あいつも俺も、同じ人間じゃないか。あいつと同じ教育を受けた以上、あいつがやれることくらい俺にもできるさ」という自負心をもって下積みのような仕事をあえてしようとする人が少なくなった。

これが、明治の時代にも言われていたことに一番ビックリした。
だからこそ、家庭教育はやはり1番の根っこにあって、その鍵を握っているのは母親だと思うのだ。
ただ学校を批判するだけでは、それを見た子どもも右ならえで同じようになってしまう。

本当に大事なのは、その子が持った素晴らしいものを生かして、それが世の中に価値として広がり富が生まれ、世の中が良くなること。豊かさを循環させることなのだと思う。

茨城県水戸市にて2007年から個人事業に従事、2015年に独立。2021年にsoratobunezumi合同会社で法人化 4人の子育てをしながら泥臭く歩いてきたから分かることを発信/ 肩書なくつながるコミュニティスペース「本拠地」と「本拠地ギルド」の生みの親