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『わたしは分断を許さない』

ずっと思っていた。

「これを、この悲惨な現実を、小すぎるわたし一人が知ってどうなるんだろう」と。


初めは、世界で起こっていることを知りたかった。自分の知識として持っておきたかった。


そうして、もっともっと、と自分のためにと知っていくにつれぶち当たった疑問。

世界で実際に起こっているそれらのできごとを、画面を通して知り涙する。行き先を知らない涙は頬を伝い、いずれ乾いてゆく。そんなことの繰り返しの先に生まれた疑問。

知るということ自体への価値を見出そうとしていたわたしは、きっと何も知らずに生きていく方が幸せなのだろう、という結論にたどり着いた。

自分の人生でさえままならないのに、広い広い世界の片隅で生きているあの少女の人生なんて考えてどうする。

それは、わたし自身のための答えだと思った。



それでも、そんな現実たちから目を背けて生きることなんてできない、とすぐに悟った。

何かしたいと思った感情に対しての答えは、「知らないことにする」というものではないはずだ。


そんなことをしたって、わたしの葛藤なんて無視して次から次へと人生に殴り込んでくるだけだ。そしてそんな現実に目を背けて生きなんていやだった。

知ったのだから、もう目を背けるなんて選択をしない。なぜなら向き合っている人々がいるから。
「知ってほしい」という人がいるから。


被害を受けた人たちや、その問題の当事者の方々が口を揃えていうのは、「現場で実際に何が起こっているのかを知ってほしい」ということだ。


彼らが口を揃えて知ってほしい、というのならまず知りたい。知ってほしい、という声に目を背けるだなんて選択肢は、もうわたしの中から消え去った。



映画『わたしは分断を許さない』には、わたしが一度目を背けようとしたあらゆることたちがこれでもか!と溢れていた。

どんどんどんどん涙が溢れてくる映像が次から次へと流れてくる。

堀さんはその大きなスクリーンに、ただその現実たちを映していた。

これを観てこうしろ、だなんて答えは言ってくれない。観た人間はただただ、現実を突き付けられる。


世界中の人が世界平和を望んだとしても、その「世界平和」のかたちなんて違うから争いが起こっているし、止まらない。望んでもいない涙がこぼれる。分断された片方が泣いていても、もう片方は平和になっていると思っているから。
それはすぐ隣にいようが、遠いアメリカにいようが変わらない。

自分の「世界」が「本当の世界」と思ったら分かり合えない。同じものを目指しているつもりでも、実は違うものを見ている。そしてそれに気がつかず知らぬ間に分断されている。

背中と背中で対話なんてできるわけないのに。その涙の理由を知ろうとしない限り、世界は平和になんかなるわけないのに。


それでもこのドキュメンタリーを因数分解していくと、なんとなくみえてくる。堀さんがただこの世界の無常だけを伝えようとしているわけではないということが。
顔を付き合わせたら、それまでの景色とは何か違うものが見えるのかもしれないということが。


堀さんはいつも言う。「小さな主語」を大切にしよう、と。

そうだ、感じていたこと。地名で、職業で、人種で、その分類を主語にして言葉にするからだ。「大きな主語」で話すたび、世界はどんどん分断されてゆく。


大きな主語を使って話すと、ものごとがとてもシンプルになる、楽になる。そしてその分軽くなって飛んで消えていってしまう。

でも主語を小さくすると、もっとたくさんのものが交わって重さを増す。

個人の想いや、感情、その人の周りの人たち。
小さな主語で話すことで見えてくるものは大きく変わってくる。

福島、香港、沖縄、パレスチナ……
たくさんの場所で撮られたそれぞれの映像たち、その中に映る名前のある人たち。画面の中から溢れ出すその個人個人の感情が心に訴えかける。

涙でぼやけるその大きなスクリーンを、何度も目をこすりながら見つめた。目をそらさないように、見つめた。


被災地に取材にきていたテレビクルーたちが放置していった傘を映した。たくさんの社会問題を扱っている映画において、あえてその小さなシーンを挿入した堀さん。

あまりにも大きな、人の命がかかっている社会問題が多い中で、あえてそのワンシーンを挿入した堀さん。

傘ぐらいで、じゃない。
置き捨てられたその数本の傘は、それ以上のものを映しだしていた。


それぞれの思いが交錯する。溢れる。


分断、「分けて断つ」と書く。


きっとこの映画を平常心で見終えることはできない。自分の無力さを痛いほど思い知らされる。


それでも今日も世界で、大切なものたちのために人々が向き合っている。それを自分ごとにするのかしないのか、だ。

ここには選択肢があるように見えて、実はないのだけれど。


映画が終わったあと、堀さんと村本さんのトークがあった。

「こんな現実なんか知らなくたって生きていけるのに、なんで堀さんはわざわざ辛い選択をするの?」
と村本さんは聞いた。

堀さんは「自分で自分の人生を生きたい、自分の生き方を選択したい」と答えた。「AからFまであったとしてAとBしか知らなくて生きていくのと、AからFまで知って生きていくって全く違う人生になる」と。


わたしもそう思う。自分の人生を、自分の命をどう使うのか。


わたし一人が世界を変えられるだなんて思ってない。それでも世界を変えようとしている人たちに寄り添うことはできる。
わたしの想いが、個人個人のそういった小さな想いが集まれば、ほんの少しずつでも世界は変えられるかもしれない。



堀さんのサインを見る機会が何度かあった。

堀さんはいつもサインの隣にこう書く。


「共に発信を」

と。



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