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言葉は発信すれば、自分の手元から離れている。

それをどう解釈するかは、相手次第だ。

その解釈に、いやいやそういう意図ではない、と言い訳するのは、間違っているのだろう。

私は、人に偉そうに講釈を垂れるほど、ご立派な人間ではない。

詩のようなものを、写真に添えて書き始めた当初は、まだ自分の中に『色』の部分が残っていて、妄想であれ過去の脚色であれ、恋愛めいた内容も多かったのだが、今はどうも自分の病んだ内面の呟きが大半である。

前向きめいたことを書けば、自己啓発関連のアカウントの人からのフォローなどもあったりするが、自分は先ほども書いたように、人様に上から語れるものなど、持ち合わせてはいない。

決して謙遜ではなく。

自分の中の承認欲求めいたものが、Twitterを活用していくという選択をする間は活用していく。

いずれ枯れ果てて無理、となった時は、その時考えよう。

写真を撮ることは下手なりに、自分の内面の発露となっているので、これはライフワークとなっていくだろうが。







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