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熱のあとにを観て

公開が発表されてから楽しみにしていた映画が「熱のあとに」という映画。
橋本愛さんも仲野太賀さんもとても好きな俳優の方ではあるのはもちろん、扱うテーマに興味を惹かれたのが一番でした。

愛と分かりあうというのがテーマだと自分は観た後から思っていて、決して特別な狂気を描きたかったわけでも、特殊な事件だったと伝えたかったわけではないのだと受け取っています。
そんな中で自分なりの愛について思うことを残しておこうと思います。

誰かと分かりあうということは簡単なことではなくて、誰かとわかり合いたいという過程でむしろ、自分のことすらわからなくなる。
ただ、誰かを愛するという中で初めて自分に気づくこともできるし、そんな時に人は誰かと繋がれたと思うのかもしれない。

沙苗という人は、愛するということを誰よりも考えて生きてきたのだと思うし、だからこそ愛を言葉にできる。だけど、その愛の形すら生きていると変わり続けるものなのかもしれないと観終わってから考えています。

生きることと死ぬことが同じ意味になるくらい愛した人がいて、その人と一緒に死ぬことすら望んだ人が、この感情は普通ではないんだと気づきながらもその差を埋めたいと心のどこかでは願っていた人が、こんな穏やかな時を愛と言ってはいけないのだと思っていた人が、時の流れと出会いと生活によって変わっていく。

愛とは自分の感情ではあるんだけど、誰かと育てていく感情でもあるんだと思います。ただ、その瞬間にお互いが同じ重みの愛を持つことは少なくて、どっちかが重いとバランスが取れなくなっていく。でもそれは悪いことではなくて、映画の中のみんなはそのバランスが取れていない中で懸命に伝えようとしていた。伝えるからこそ相手に何かしら届くし、届いたものは相手の愛の形を何かしら変えていく。その変化は自分にとって望んだ変化をしないかもしれないけど、それでも誰かとわかり合いたいと願うのならば、伝えることしかないんだと思う。

仲野太賀さんが演じる健太という人の印象が変わっていく中で、ここまで書いた変化について思いました。明るく雑であまり繊細じゃないのかなと思っていたら、そばで誰よりも沙苗を理解しようとしていた人なんだと。そして沙苗と過ごす時間の中で健太自身も間違いなくいろいろな変化をしていき、自分の愛を考えるようになった。

そんなふうに相手を変えてしまうものでもある愛を初めて恐ろしいとすら思いました。それは狂気が恐ろしいのではなく、相手を変えてしまうということの恐ろしさであり、愛することの怖さをしれた作品でした。ただ、わかり合いたいと願うことの尊さでもあり、それが誰かと生きていくことの意味でもあるんだといまの自分はこの作品を通して思っています。

決して万人に受け入れられやすい作品ではないのかもしれないけど、誰かとわかり合いと願う人にとっては何かを感じれる作品だと思うし、狂気的でもありながらそこに普遍的な何かがある作品だと思います。

とてもいい映画でいろんな自分の感情を知ることができる映画なので、興味ある人はぜひ。

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