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草彅剛主演映画『ミッドナイトスワン』感想

先日草彅剛主演の映画『ミッドナイトスワン』を見てきました。

ぶっちゃけ最初はあまり期待していませんでした……

母親にネグレクトされていた少女と、トランスジェンダー女性の疑似家族物語……ということで、題材はとても好きだったのですが、いざオフィシャル・サイトを見てみると、安っぽいキャッチにひたすら主演の草彅剛推しと役者陣の紹介……ヒロイン役の服部樹咲さんには(新人)という括弧書き付。何故???ちゃんとオーディションを勝ち取って実力を認められたのなら、一人の女優として扱ってあげればいいのに……

これはストーリーやテーマ性のための映画ではなく、俳優・草彅剛のための映画なのか……という印象を強く受けたので、気にはなっていたものの、あまり期待していなかったのが本音です。

が、結論から言うとめちゃくちゃ良かったです……

これは大衆のためのエンタメ映画ではなく、賞を取ってもいいレベルの、非常に社会的意義のある映画だと思いました。思った以上にLGBTの方々が日々直面している現実に切り込んでいるし、それ以外の部分でも人物の心の機微の表現が非常に巧い……


ところで、私はLGBTという言葉があまり好きではありません。LGB(レズビアン・ゲイ・バイセクシャル)=性指向と、T(トランスジェンダー)=性自認を並列に並べているのが若干違和感がありますし、LGBTからは取りこぼされているその他のセクシャル・マイノリティも多くいるからです。

海外ではLGBTQ、LGBTX、LGBT+と言った表記のほうが主流になっているかと思いますが、日本ではなかなか普及しません……表記揺れがあるのもなかなか定着しない要因になっているのかもしれませんが……本記事では便宜上「LGBTQ」と記載します。

また、以下は映画に関しての詳細なネタバレを含みますので、未視聴の方でネタバレNGの方は閲覧をお控えください。

(長いですので(9000字程度)、心してお読みください……どうしても「かったるいわ!!」って方は後ろのほうまでスクロールしていって、「LGBTって流行ってるでしょ」「俺も研修とか受けてるよ」の部分だけ読んでいただければ幸いです。一番言いたいことはそこなので。)

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「お前ら男に負けてんぞ!」

冒頭のほうで新人アイドルを連れて店にやってきたお客さんが、凪沙たちトランスジェンダーのキャストを見て新人アイドルに「お前ら男に負けてんぞ!」と言い放つシーン。

あっはっは!清々しいほどあるあるですね〜〜〜
LGBTQの人がイラッとする褒め言葉筆頭ですね。

この言葉の何がいけないのか。

この言葉には「おしゃれや美容は女性がするもの」「女性は男性より美しいもの」といったような、性別二元論の前提が潜んでいるからです。そして凪沙たちの容姿への評価は、常に「男にしては」という暗黙の枕詞が付いて回ります。一見配慮や持ち上げているようにも見えますが、その実「女性として同じ土俵には立たせてもらいない」という現実を突きつけられているに過ぎません。

凪沙たちにしてみればそもそも「男に」負けてんぞ!って何よ、私も女なんだけど……って話です。そりゃあこれっぽっちも嬉しくありませんね。


「うち、お金はあるからさ」

一果がバレエ教室で知り合った同級生のりんに家に招かれ、お古のバレエシューズや衣装を譲り受けるシーンです。りんの行動は100%善意であるし、裕福ではあるけど意識高い系の母親と閉塞的な家庭環境に辟易としていたのは本当だと思います。彼女には彼女なりの悩みがあり、誰にもその行動と発言を非難することはできません。

しかしその言葉は現にお金がなくてバレエを続けることができない一果にとっては痛く刺さるものです。なんの悪意もなくとも、本人は本気で悩んでいて弱みを共有したつもりでも、時に人は人を傷付ける、という現実を、うまく表現しているなぁ……と思いました。


「個撮やりなよ」

一果の才能が頭角を現し、コンクールに出るためのお金を稼ぐため、りんが前は「やったらダメだよ」(性犯罪のリスクがあるため)と言っていた「個撮」を一果に勧めるようになります。

りんの真意はわかりません。本当に一果が類い稀な才能を発揮したから、ぜひともコンクールに参加してもらいたくて、より効率良くお金を稼げる「個撮」を勧めた可能性はあります。そしてその後の彼女の行動や性格、一果への思いを鑑みるに、彼女の動機はやはり99%善意だったのでしょう。

でも、ほんの少し、たったの1%も、悪意がなかったわけでもないと私は感じています。友達として、コンクールに出て、成功してほしいと願う心がある一方で、何かの間違いで少し怖い目に遭ってほしい、という負の感情も、多少はあったのではないかと思います。

実際、日々目まぐるしい成長を遂げる一果に対して、りんが表情を曇らせる描写は劇中にあります。幼少より努力を重ねて来たりんにとって、ぽっと出の一果に実力で越されるのはまあ面白くはないでしょう。

そしてその答えは映画では明確には示されていません。なのですべて視聴者の推測に過ぎないのですが、仮にそうだとしたら、実に人間くさくて大変よろしい。(笑) この作品は言葉にならない部分での人の心の機微の表現がとても巧みですね。


椅子を投げる一果×2

ヒロインの一果ちゃんは作中で二度椅子を人に向けて投げています。一度目は新しいクラスメートに凪沙のことについてからかわれた時、二度目は個撮で男性のカメラマンに水着に着替えるよう迫られた時。

一度目の怒りポイントはなんだったんでしょうねぇ……自分がバカにされたこと?腐っても親族をバカにされたこと?LGBTQと呼ばれる人たちのことをバカにされたこと?(この時点で一果にこのような義勇心があるとは考えにくいですが……)

この映画の登場人物は多くを語らないのでこちらも真意は図り兼ねるのですが、凪沙のために怒ったという可能性もある中で、当の凪沙には「私に迷惑かけないでちょうだい」「学校に謝りになんて絶対行かないから」と突き放されていて、しかも一果ちゃんも特に弁解しないという……むむむむ……胸が痛いですね……

二度目は自分の身を守るためでわかりやすいですね。ありがちなここでなんか酷いことされる展開じゃなくて良かった良かった。夢(コンクール)のためにとか、紹介してくれたりんや世話になっている凪沙に迷惑をかけないために、なんて考えないで、年相応に無鉄砲で、ちゃんと反抗ができる子でよかった……

ネグレクトされてたから唯々諾々とした性格なのかと思ったら、凪沙に「掃除しといて」と言われて「やだ」と言えたり、クラスメートに怒りの丈をぶつけたり、大人の男性にも歯向かっていけたり、ちゃんと自己主張と反抗ができる子で本当に安心しました……(ただ大人の男性にはハンデがあるとして、無防備のクラスメートに椅子を投げつけるのは本当に危ないので止めさせなければ……)


慰めの言葉を言わない一果

凪沙がホルモン注射(?)の後ふらふらで家に帰って泣き崩れるシーン。(ここの草彅剛の演技も素晴らしいです……)「ほっといてちょうだい」「こういうのは思いっきり泣けば収まるのよ」(ちょっと正確な台詞覚えてないですが……)という凪沙に対して、無言で佇む一果。

きっと上っ面だけの薄っぺらい慰めの言葉なんて何の意味もないだろうし、一果には凪沙の痛みなんてわからないから、かける言葉もない。

わからないならわからないでいいのです。下手に取り繕って「わかるよ」などと無責任な言葉を並べたてるよりも、正直に「わからない」と受け止めて、言葉通り「ほっといてあげる」のが、凪沙はじめLGBTQの人たちの多くが望む対応なのでしょう。(要は、知った気になってズケズケと踏み込んで来ないでほしい、ということ。)

物言わず、ただそこにいる、一果の存在が、確かに凪沙の心の支えになっていく未来が予感できるシーンでした。


「帰るわよ」

凪沙の務める店でバレエを披露した一果の才能を認め、白鳥の髪飾りを付けてあげながら「帰るわよ」というシーン。一果の居候を拒絶していた凪沙がいつしか当たり前のように「帰るよわ」「帰りましょ」と言うようになったのはベタですがグッと来ますね……


夜の公園で踊るシーン

心を通わせた一果と凪沙が夜の公園でバレエの練習をするシーンは本当に涙が出るほど美しかったです……


「なったよ」「なってないよ」「なったよ」

学校の屋上で繰り広げられるりんと一果の「なったよ」「なってないよ」ラリー。

無口の仏頂面を貫いていた一果が「なってないよ」とちゃんと答えている時点で喋るようになったのは明白だけど、この脚本の妙と女優・服部樹咲の演じ分け。

「キスしていい?」のくだりはちょっとびっくりしました。

と同時に、感服いたしました。

というのも、作中りんちゃんは特にボーイッシュなキャラクターとして描かれてはいないのです。女の子っぽいフリルの付いた服をよく着ているし、性格も若干サバサバしたところはありますが、特に男の子っぽいということもないのです。

りんちゃんは身も心も「女の子」であり、「同性愛者」(またはバイセクシャル)なのです。

対して主人公の凪沙は「トランスジェンダー」です。同性愛者とは限りません。

作品紹介などでは凪沙のことをかなり明確にずっと「トランスジェンダー」と正しく称してはいますが、一般の方々の多くは「同性愛者」との違いをきちんと認識していないと推測します。

一般的に「オネェ」と呼ばれる方々は、身体的特徴が男性で、性自認が女性の方を指します。心は女性なので、異性である男性を恋愛対象として好きになるのはある意味当たり前なのです。(異性を好きになるのが当たり前と書いてしまうのはあまり良くないのですが……わかりやすさ重視で……)

はたから見ると(身体的特徴的には)男性同士の恋愛のように見えるので、よく「同性愛」と混同されますが、「オネェ」と男性のカップルの場合、「オネェ」は正確には「同性愛者」ではなく、「トランスジェンダー」の「異性愛者」です。(もちろん、女性と付き合っている「トランスジェンダー」且つ「同性愛者」の「オネェ」もいるかもしれません。)

つまり、この作品では

凪沙=トランスジェンダー
りん=同性愛者(またはバイセクシャル)

という性属性の違いを明確に描き分けているのです。(キャストに「トランスジェンダー指導」のような役職の方がいたので、考証などはしっかりしているのでしょうね。)

これまでりんちゃんには所謂「そっち」の気配がなかったので、突然の「キスしていい?」には狐につままれた思いです。が、一見ごくごく普通の女性・男性でも、実は同性が好きだっておかしくない、ということは、念頭に置いておかないといけませんね……(そもそもそっちのほうが本来の「同性愛者」の定義なのですし……)


「この子からバレエを取ったら何も残らないんです!!」

あっはっは!そんな漫画みたいなこと言うステレオタイプな母親現実にいる〜〜〜???って感じなんですが、少数であるとは思いますが、いないとも言い切れないですね……あっはっは。

「この子は優しいのだけが取り柄なんです!」
って言う母親はいるよね。いそう。あっはっは。


りんがコンクールに出ている一果とシンクロして踊るシーン

最初りんが屋上から一果に電話してて「ヒュッ」ってなりました。
これ絶対飛び降りてその消息を聞いた一果がショックでコンクール踊れなくなる展開じゃん……って思ったけど、電話切った後ちゃんと戻ってて一安心……

一果の出番と同じタイミングで音楽を流し、踊り出すりん。その舞がまた美しい……この時のりんにとって上辺だけの賛辞は本当にどうでもよくて、不快ですらなくて、世俗の声なんて馬耳東風で、世俗の興味が他に移ったってお構いなしで、ただ今、同じ時、違う場所で、好きな人と、同じ踊りを踊っているという一体感、応援しているよというメッセージ、バレエへの思い、一果への想い、心を裸にして踊るりんは本当にキラキラしていて楽しそうで美しい……ステージ上の一果と屋上のりんの舞がシンクロしているシーンは本当に息を呑むほど美しいです……

ただ、死ななくてもよかった……あそこで飛び降りる必要は全くなかった……脚本的にもあの子の人生的にも……ここばかりは脚本に物申したい……


瑞貴と凪沙の本名、海パンについて

警察沙汰になって瑞貴が自分の本名を書き渋るシーン、凪沙がヘルメットに自分の本名を書き渋るシーンがあります。「剣太郎」「健二」という男っぽい名前を受け入れられないからというのは容易に想像できます。

また、冒頭および終盤で凪沙が「なんで私は海パン履いてるんだろう」「なんで私はスク水じゃないんだろう」と回想するシーンがあります。

気持ちはわかります。わかるのですが……この手の話になるといつも考えてしまうのは、「健二や剣太郎は男っぽい名前」「男子は海パン、女子はスク水を履くもの」という考えこそが性別二元論に基づく「らしさ」の強要に他ならないのではないでしょうか……なぜあえてそれに縛られに行くのでしょう……?「私は女で、健二という名前」ではダメなのでしょうか……

とはいえ、私も身も心も女性で「健二」なんて名前だったら、純粋に嫌ですね……だから気持ちはわかります……でもそれは「健二は男っぽい名前」という暗黙の認識を持っているからであって、だから本来変えるべきは自分の名前ではなく「健二は男っぽい名前」という社会の、或いは自分に内在する偏見のほうなのだと思うのですが、そんな簡単な話ではないのでしょうね……難しいです……


「LGBTって流行ってるでしょ」
「俺も研修とか受けてるよ」

あっはっは!流行ってるとかそういう話じゃねぇんだわ……
これもLGBTQの人が高確率で言われる&最高にイラッとする言葉代表ですね〜〜〜

往々にしてこの映画の台詞回しは今時そんな無神経なこと言う人いるの???って感じの大げさでステレオタイプな表現が多いです。それが一部不評を買っている要因でもあるのでしょう。

しかし果たしてそうなのでしょうか?
大げさでわざとらしいのでしょうか?

私はそんなことないと思います。これが今もLGBTQの人たちが日々晒されている現実なのだと思います。決して誇張表現ではないのです。彼らを取り巻く環境は依然不理解と偏見と無責任な発言に満ちているのです。


少し立ち返って考えてみましょう。
そもそもなんで研修が必要なのか。

無知は時に人を傷付けるからです。

少し前、コロナ禍でニュース番組などに出ている手話通訳者にもマスクを付けさせてあげて!!といった議論が炎上したことがありますね。呼びかけた人は手話通訳者の健康を心配しての100%の善意だったのかもしれませんが、その人は「聾唖の人々は手話通訳者の口の動きや表情も見ながら手話を読み取っている」ということを知らなかったのです。だからこんな有難迷惑なことになってしまうのですね……(今は手話通訳者の方々は透明のシールドを付けていますね。)

私は車の免許を持っていないのですが、そのためタクシーの運転手さん等に配慮のつもりで「ここでいいですよ」と降ろしてもらおうとしても、実はそこは交通ルール的に停車してはいけない場所で逆に困らせてしまう、なんてこともあり得るかもしれませんね。

ベビーカーを推したお母さんはエスカレーターには乗れないのでエレベーターを使用しますが、ベビーカーは場所を取るのでエレベーターにそんなに人が乗っていなくてもなかなか入れなかったりしますね。それで何度も何度もエレベーターを見送りいつまで経っても乗れない、ということがあるそうです。それゆえ新しい商業施設等では「ベビーカー・車椅子専用エレベーター」というのができたようです。と言っても専用エレベーターがある施設はやはり少数です。それを知ってからは多少階数があってもエレベーターではなくエスカレーターを乗り継ぐようになりました。

つまり、思いやりや優しさには知識が必要なんです。そのための研修です。LGBTQと呼ばれる人たちがどんな特徴を持っているのか、どういうふうに考え、どういうふうに感じるのか、知ることで適切な接し方を模索することができます。

昨今の道徳の授業では「自分がされて嫌なことは人にもしない」ではなく、「相手が嫌がることはしない」と教えているそうですね。良いことだと思います。

されて嫌なこと、されても平気なことは人それぞれの価値観に依るところが大きいです。自分の杓子定規で相手を推し量れるはずもないので、十人十色の人々がどんなことを「嫌だ」と感じる可能性があるのか、「知識として」学習しておかなくてはいけないのです。

だからってなんで我々マジョリティが研修まで受けてマイノリティ様に配慮しなければならないのか。と不平に思う方もいるかもしれませんね。

これに関しては「マジョリティ」と「マイノリティ」に分けて考えるのがそもそもナンセンスだと思います。課題の本質は「マイノリティを傷付けないため」ではなく「如何なる相手をも傷付けないため」の術を学ぶことにあります。

人を傷付けてはならない、思いやりを持たなければならない、というのは何も道徳的な、精神論だけの話ではなく、社会学的にもそれが人間社会全体の発展に有利であることは科学的に立証されています。(この辺の話を始めるとまた長くなるので割愛……)

それで、普通に生きてると「マイノリティ」が「マジョリティ」の考えに触れ理解する機会はたくさんあるのですが、「マジョリティ」が「マイノリティ」側に自然に触れ理解する機会はそうそうありません。なので、ごめんだけどちょっと時間をかけて勉強してね、ということなのだと思います。これはLGBTQに限らず、障がい者や、難病を患っている方に対しても言えることですね。

じゃあ逆にどういう対応をされるとLGBTQは嬉しく感じるかと言うと、こちらも作中でいくつか明確に描写されています。

・夜の公園で踊りを見ていたご老人が言った
「素敵な踊りですね、お嬢さん達」
(↑すみません、正確な台詞忘れました……)

「お嬢さん達」となんの疑いもなく認めてくれたこと。踊りそのものに対して評価をしてくれたこと。

・バレエの先生がとっさに言った
「でも、おかあさん……」

性別の垣根を越えて、「生徒の保護者」として認識しているゆえの、いつもの癖で咄嗟に出てしまった呼称。

・面接官の女性が言った
「そのピアス素敵ですね」

性別に関係なく、身に付けているものやセンスそのものに対する賛辞の言葉。

ある発言に対して凪沙が微妙な表情をしたり、逆に嬉しそうにしたり、多くのLGBTQはこう感じるであろうという反応を、この作品ではわりと明確に示しています。よほど空気が読めない視聴者でない限り、それは汲み取れるようになっていると思います。

なんであの時凪沙はあの言葉に対してあんな反応をしたんだろう?というのを少し気に留めてみてほしいのです。理由は理解できなくてもかまいません。人の心の本当のところなんてわかりっこないから。でもこのようにケーススタディを経ることで、こういう反応はOK、こういう反応はNG、というのを対処療法的に学ぶのはできるはずです。

周囲の人々の反応がステレオタイプだからこそ、この映画は参考意義のあるものになっているのです。


「誰のために働いてると思ってんの!」

これは一果ちゃん的にはかなり痛い……信頼していたはずの凪沙がお母さんと同じことを言い出してしまったからね……

でもその後ちゃんと「おいで」と一果を呼び寄せて、一果も意地を張らずにちゃんとそれに応えて抱き締め合うことができたから、この二人はちゃんとコミュニケーションが取れる家族だ……と感動しました……


最後の海で踊るシーン

真っ青な海を背景に白い服を着た一果が凪沙のために踊るシーンは、まさしく白鳥そのもので本当に美しい……この映画には印象的で美しい踊りのシーンがたくさんありますね……

余談ですが一果の母親が傷付いた娘を抱き締めるためにステージまで駆け上がったり、広島に帰った後も東京から先生を呼び寄せてバレエを続けさせてあげたり、身だしなみをきちんとして娘の卒業式に出席したりと、娘のために頑張って変わろうとしている姿勢はあって、そこまで悪くもない母親なのかな……とは思いました。


凪沙の母の反応

一果を迎えに田舎に帰った凪沙の体を見て半狂乱になる凪沙の母。

ははは。こちらもなかなか大げさ……

というわけでもないのかもしれない……少なくともうちの母親はガチでこういう反応しそう……

ずっと息子だと思って大事に育てて来た子供が突然女性の体になって戻って来たらそりゃ半狂乱にもなりますわな……それを「理解がない」と咎めることなど誰に出来るのでしょう……

だから私は「知識の普及」が大事だと思っているんです。凪沙の母の価値観の中に「そういう人もいる」という認識が少しでもあったのなら、凪沙も凪沙の母もここまで傷付くことはなかったと思うんです……


「病気じゃないの。病気じゃないから治せないの」

これはどうなんでしょうね……「性同一性障害や同性愛は生まれ持った性質であって、後天的な環境に影響されない。病気ではないので治せない」というのが現在の通説になっています。

これはそういった性質の子供を持ってしまった親の「私の育て方が悪かったんでしょうか……」という悩みや、自分は異常者で、矯正しなければならない、と思い悩むLGBTQ当事者の方への救いにはなっているのかもしれません。

ただ、私が不学ゆえ、一体どういった研究結果や論文に基づいてそう言われているのか、実のところよくわかっていません……

私個人としては、「病気だったらよかったのに……」と思うことがあります。病気だったら、治療で辛い思いをすることはあるかもしれないけど、治すことができたのに……と思ってしまいます。(あくまで私の個人的経験に基づく感想です。LGBTQを病気だと言っているわけではありません。)

現代のLGBTQの方は、社会に適応するために自分を変えるのではなく、自分が生きやすいように社会のほうを変えようと戦っているのは、逞しいな……と思います。


おわりに

記事の冒頭でこの映画のプロモーションの方向性について苦言を申しましたが、こうして振り返ってみると、これはこれで戦略的には正しかったのかもしれません……

トランスジェンダーが主人公の映画を能動的に見に行く人なんて、もともとトランスジェンダーに何かしら興味や関心がある人だけです……しかし、恐らくこの映画はそういった既にある程度LGBTQに対して理解がある人を真のターゲットにしているわけではありません。(なのでLGBTQ当事者や活動家からは安っぽく見えてしまうのかも……)

そうではなくて、もっと広く一般的に多くの人に見てもらい、LGBTQについて知ってもらうための映画なのだと思います。

そこで主演の草彅剛のネームバリューで一般視聴者の興味を引くことで、普段LGBTQには関心のない人々をも映画館に向かわせた功績は大きいです。

プロモーション戦略も含めて、これは非常に社会的意義のある映画だと思いました。