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私の軽井沢物語

【私の軽井沢物語】
〜霧の中の時を求めて〜

朝吹登水子 1985

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「私が這いはいをしながら人生を進み始めたのは軽井沢の小坂別荘である。父は簡素で良風の軽井沢が大変気に入り、大正九年(1920)に別荘を買ったので、私は子供時代と少女時代を兄たちと毎夏ここで過ごすことになる。」
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朝吹登水子は実業家「朝吹家」の生まれ。両親は彼女の為にはロンドンで小学校の先生をしていたミス・リーを家庭教師として雇う。その影響で軽井沢でイギリス風の日々を過ごす。
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「「大正十二年九月一日」ミス・リーを囲んで彼女が呼んで聞かせるイギリスの本に耳を傾けていた。そのとき、ドシンと地面が下から持ち上げられる震動を感じた。だんだん東京大震災のニュースが軽井沢にも伝えられ、碓氷峠から東京の大火が見えるというので、町の人たちは峠に登って行った。」
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皇族、華族、財界の人々が描かれている。徳川喜和子(徳川慶喜公の長男の次女)、白洲正子 、有島暁子 ・・・輝ける女性たち。そして当時の有名なテニスプレーヤー、安宅登美子、原田武一・・・。
朝吹登水子がテニスに夢中になっていた頃、追分(軽井沢西部)では、福永武彦、中村真一郎 加藤周一、白井健三郎・・・などがいた。朝吹登水子が書き記している。
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「(彼らは)戦争について考え、人間について考え、文学について考えていた。戦争中、憲兵の目が光っていた監視つきの軽井沢で、私がこれら優秀な青年たちと知り合っていたなら、強い心の支えと知的な刺激を得ていただろう。」
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夢のような日々は過ぎ去り、次に軽井沢を訪れるのは「疎開」として。
戦前、戦中、戦後と物語は描かれている。
「私の軽井沢物語」の終盤は、軽井沢を愛した人々の戦死の記録となってる。

戦争が終わり、平和ふたたび・・・とはいえ。
GHQが行った政策の財閥解体で朝吹家の財産は手放されていく。

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「高原の強い太陽のもとで、テニスや、ゴルフや、自転車や、乗馬や、山登りに愉しい幼年時代と青春を送った青年少女たち。嬉々としたその姿が、霧の中から、私の想い出の中から、浮かび上がる。」
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