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日記:分かった!…だけでは「終われない」何か:キリスト教が大まかに把握できた気がする嬉しさと終わってなかった黙示録:「キリスト教思想への招待」(田川健三)読了

結論から言うと、とても良かった。特に1〜3章は、まさに知りたいことが知れました。ところが4章はちょっと違う。。。そういったことを本書のまとめとしてnote。
※タイトル画像は田川健三氏(新潮社の『考える人』誌掲載)のピクセル画


近代民主主義を支えるヨーロッパの思想と、それを持たない日本列島


近代民主主義社会の根底を支えるヨーロッパの思想(キリスト教)について知りたかったというのが、本書を読む第一の目的でした。
日本の民主主義が機能不全である理由を、そもそもの文化思想の違いに求める言説はずっと前から聞こえていたけれど、ピンときていませんでした。それを知りたいと思ったのです。

そして、読んで。とてもフに落ちました。第一章〜第三章(「人間は被造物」「やっぱり隣人愛」「彼らは何から救われたのか」)は、まさにその回答をくれる内容でした。


社会を支えるのは、文化に根づいた規範感覚であり、システムはそこをベースに機能する便宜的なものでしかないということ。社会の機能の一部を、仮に担っているに過ぎないということ。

だからその地域の文化に依拠しないシステムを作っても、文化とシステムのどちらもカバーできない空隙が生まれるし、システム自体も機能しないということ。

。。。を述べている本ではありませんが。

具体例も交えて展開される本書の内容からは、上記のようなことをひしひしと感じる。

キリスト教文化圏のことをもっと知りたくなり、一方で自分の足元にあるモノは何なんだ?。。。と、私の住む列島と東アジアの文化思想について掘ってみたくなる

何よりタイトル通り、「キリスト教思想」について大きく「感じ」を掴むことができるという意味で、とても良い本でした。

内容を紹介したいけれど、それを自分の言葉で噛み砕く時間とベース知識がないので、「掴みたい!」方はぜひ読んでください。


「終われない」こと。「忘れるな」。今日まで続いている黙示録。第四章


ところが、ヨハネ黙示録を扱った最後の第四章「終われない終末論」だけは、少し毛色が違う。

理解できた!とかいった傍観者で居られない。取りすまして「学問」しているだけの立場が居心地悪くなる何かがあります。

とにかく「黙示録」が作者のやりきれなさ、怒りが原動力となって書かれているらしい、ということは分かる。怒りの大きさゆえに、ヨハネは「黙示録」を、章のタイトル通り、いつまで経っても書き終えられない。終わったと思ったら、また始まる。悪人への裁きが延々と続き、「終われない」

そして「終われない」と言う言葉が、比喩やシャレたキャッチではなく、本当にヨハネは「終われていない」のだと。この怒りは本書を読んでいる現在点まで終わっていないのだと。
なんとこの黙示録は2000年たった今でも続いているのだと、不意に「理解」します。古代と今の何がどれだけ違うのかという恐ろしさが背筋に差し込まれる、そんな仕掛けがある。

そう言う意味でエネルギーと魂がこもった本だったと思います。
著者の田川健三さんが、時間と空間を超えて、「終われなかった」ヨハネ黙示録を「終わらせない」、「終わっていないんだぞ」「見ぬふりさせてたまるか」とヨハネに変わって叫んでいるような内容でした。

以下、終章の一部を引用。これで本書とはいったんさよならです。
おやすみなさい。

どうか二度とこういう本が書かれることがありませんように。しかし、そのためには世の中が、黙示録なんぞを必要としない世の中になっていないといけない。そうでない限りは、ヨハネ黙示録は、形をいろいろに変えながら、いつまでも書かれ続けることだろう。

もっとも、そう言う前にまず、我々自身が二十世紀前半においてアジア諸地域において大量に生み出された黙示録的怨念の責任者だという事実を正確に認識しておかないといけない。

関連した過去noteはこちら↓

https://note.com/soramoumimo/n/n3d169e340501


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