日記:ただ暮らす。掬える水はなんて少ないんだ、笑えるくらい
母に時々言う言葉があります。「急いでも急がなくても、できることや満足感の大きさはそんなに変わらないんじゃないかなあ」。母はいつも「あれもやらなきゃ、これもやらなきゃ」というところがあり、歳をとるごとにできることが少なくなることに割り切れなさがあるようです。外から見ると「そんなに焦らなくても」と思えることでも本人からするとそうじゃない。それは本人にしか分からないものだと思うので、「焦る必要はない」とは言いません。冒頭の言葉も、まあ自分に言っているところもあるのです。
永遠の命に憧れるなあ
やりたいのに全部はできない、見たいのに全部は見れない、知りたいのに全部は知れない。ここに至って初めて、私は思います。「うーん、永遠の命にも憧れるなあ」。世界は大きすぎて、あじわいきれない。歯がゆいです。けれどもここ数年は「それでいいのか?それでいいのだ」という心境になってきています。(これについてはまたどこかで書きたいのですが)。
本日の成果は、ガーゼの端を縫ったこと
ということで今日の私ができたことは、「2つに切ったガーゼの端を、ほつれないようにかがり縫いしたこと」です。このnoteを始めた日からずっと、私は枇杷の葉湯を試しています。これまで枇杷の葉は、新しく買った洗濯ネットに入れてお風呂に入れていました。その袋をここにきて木綿にすることにしたのです。ガーゼの方が体に当たってやさしいので、よりくつろげる気がしたのでした。
GWに実家に帰った際、母に適当な木綿を持っていないかを聞くと、ガーゼを出してくれました。ガーゼは薄い2枚が縫い合わされているので、真ん中で切ると、袋状のものが2枚できます。このやり方なら、切った端だけ縫えば済むから手間がかからない、そう勧めてくれました。「確かに!」。
ということで本日、母からもらったガーゼを2つに切って端を縫いました。ほつれないよう、簡単にかがるだけ。TVドラマの録画を再視聴しながら縫うのは楽しい作業でした。ただし縫えたのは、2枚のうちの1枚だけ。そしてこれが、本日の私の成果です。
手に掬えるだけの水
買い物をしたり、掃除をしたり、洗濯物を畳んだり、ご飯を作ったり。ちょっとTwitterで呟いたり。そういうのを体に不快でないリズムで行うと、プラスアルフアでできるのはこんなことくらいなのです。なんて少なくて小さいんだ。でもこの積み重ねが、私の大切な営みだろうと最近は考えています。考えるというより、体で感じると言った方が近いかもしれない。これ以上の情報は(…というのは、動くことは自分に情報を刻むことのように感じるので)多すぎるように思う。泉からいっぱいの水を手のひらで掬っても笑えるくらい端からこぼれて、結局は手のひらの底にちょっぴりしか残らない。そういう感覚です。
鯉のぼりは、まだ飾ってます
お風呂に入りながらかがったガーゼの端を見たら、なかなかいい感じでした。しみじみ満足です。そりゃあ。読みたい本もあったよ。見たい動画もあったよ。書きたい感想は他にもあったし、描きたい絵もあった。作りたいピクルスもあったし取り替えたいフィルターもあったよ。しまいたい冬服もあった。でも今日できたのは、ガーゼの端のかがり縫いだけ。このギャップが、本当に不思議な感覚です。
(雑記:鯉のぼりと五月人形は、あんまり天気がいいのでもったいなくてしまえませんでした。と言って雨の日もしまえない。。梅雨が来るまでにしまうタイミングもあるでしょうが)
日記:2022年5月8日
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