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日記:枠組みから飛び出さざるを得ない「優秀な青年」:イエスという男 逆説的反抗者の生と死(田川健三)

「イエスという男」読了。感想を一言だけ言うなら、読書開始前にnoteした通り。読むべき本でした。

現代と地つづきのドキュメンタリー


現代の、地つづきの、ドキュメンタリーを見ているような読感。なので「分かった」という読後感にはなりません。「そうか、イエスとはこうだったのね!」とならない。それは「現実に生きた1人の人間像に迫る」という、本書の狙いが成功したということにほかならないと思います。現実とは理解すればするほど、「本当に理解する」ことはできないと思い知るものだからです。消化しきれないモヤモヤが残る、もっと考えたくなる。だからこそ、読むべき本だと思います。


何より、イエスという男性が生きていたということを、この現代とひとつづきの世界の現実として感じられたことは、とても新鮮な感覚でした。歴史に限らず、古今東西、何を眺めるときにも、目を曇らせないためには、それをできるだけリアルな現実の感覚を持って把握する姿勢が大切だと思います。この本は、本自体の在り方と、本の中で語られるイエスの姿を通じて、そのことを示してくれています。


「十字架にかけて殺された男のものすごい生を描きうるには」

田川さんは後書きに次のように書いています。

そもそも十字架にかけて殺されたこの男のものすごい生を描きうるためには、自分もそれに対応しうるだけの生の質を生きていないといけない。<中略>少なくとも、できる限りそれに近接する質は保ちたいと思った。さもないと、イエスを描くという行為がイエスを骨ぬきにして抱えこむことになるという、二千年間反復され続けた行為に自分もおちいってしまうことになる。

イエスという男  逆説的反抗者の生と死(田川健三)P366


その人について書くに、それに値する生き方をせねばと思わせる、そういう生き方をした人間がいたということ。そしてその生き方がいかに体制に祭り上げられ、骨抜きにされたかということ。それでもなお、この田川さんのように、その実像に迫りたいと人に思わせるか細い声が二千年後の今に響くことに途方もなさを覚えます。人から人へ伝わる奇跡の、その一端に触れたような気持ちになりました。

枠組みから飛び出さざるを得ない「優秀な青年」の姿

その例というには十分には相応しくないのですが、イエス登場の前史についての記述などは、リアリティにおいて印象的でした。

語られるのは、イエスは当初、律法に通じた「田舎の優秀な青年」として会堂で語っていたものが、人の評判を呼び、やがてイエス自身がだんだんと自分の言葉・自分の主張を持って語るようになると、会堂から敬遠され、またイエス自身もそういった枠組みから積極的に出ていったという、そんな姿です。そして、既に会堂での話で評判を呼んでいたからこそ、人々がおのずとイエスの周囲に集まり話を聞きたがったと言う光景が描かれます。

優秀な人が、その気づきの鋭さゆえに黙ってシステムに組み込まれることができず、枠組みから飛び出さざるを得ないというのは、いかにもありそうです。なぜ「人に説いて回る」などという姿に至ったのか、それだけでは1人の人間の姿としては不自然なのですが、上記のような流れを想像するなら、「宗教者」ではない、人格ある人間の姿がごく自然に思い浮かびます。

適切な例でないというのは、本書の中で「想像」と田川さん自身が述べていること、また上記の内容は記載された章の考察の本題ではないからです。ということではあるのですが、私がリアリティを実感した例として、挙げておきます。

1周目読書のおわりに:もちろんそれだけではない

もちろんその他にも読みどころはたくさんありまして。。

聖書に記載されたエピソードの読み解きからは、当時の社会の理不尽が、今の社会と照らし合わせながらリアルに感じられます。結果、イエスと一緒にその社会に対し憤りを交えたやりきれなさを覚えます。イエスが持ち得た、社会に真っ直ぐ切り込む優れた視座にもハッとさせられます。これらはまた、他の読書を終えた後、改めて書いてみたいと思います。

(雑記)
網戸の「内側」に蚊がとまっているという恐ろしい風景を先ほど目撃しました。慌てて追い出しましたが、無事出て行ってくれたかどうか。。真実は今夜わかりますね。

(日記:2022年6月10日)

紹介した本のリンク

※上に紹介したのは私が購入した1980年版ですが、2004年に増補改訂されたそうで、そちらもリンクしておきますね。


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