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日記:やっぱり「頑張り」は怖い。煽られない頑張りであれかし。

少し前に、高い専門性に見合った収入が得られない、というツイートが流れてきました。けれどもそのツイート主の現在の収入額が一般的には高収入であったため、そのツイに対する反響は賛否様々でした。

もちろん大原則として働きに見合った報酬というのはあるべきだと私も思いますが。。。
それにしても私は、そのツイを取り巻くマイナス感情の多さが賛否を問わず気になりました。

「見合う」とは


まずその報酬が「生活できない」場合には、「見合う・見合わない」以前の段階の話だろうと思います。
この場合、何をもって「生活できる報酬」とするか、が論を呼びますね。ここを論点にすると、生活への苦しさからマイナス感情が湧き出してしまうのは仕方がないと思います。

そして次に「生活できる場合」。
生活は問題ないよーということなら、何をもって「見合った」と言えるのか??という論に移れると思います。
この論点でも、マイナス感情が多いのですね。なぜなのか??


例えば最先端の数学者が、家事をそこそこにこなせるハウスキーパーと同じ報酬だったとき、そこにマイナスの感情が生まれて「然るべき」でしょうか?
本当に??

市場経済で考えれば「価値の差」があるだろうとは思います。そこでいうなら希少価値が高いほど、「見合う」報酬も高くなりますよね。
けれども本当に、そこにマイナス感情が生まれて然るべきでしょうか?「生活できている」のにマイナス感情が生まれる理由は、他にあるように私は思います。

「頑張り」に見合う報酬とは


そしてそれが何かと言えば、内発的に起こる素直な感情以上に、外発的な理由から「頑張り」が必要になった時に、その「『頑張り』に見合う報酬」を得られないと、マイナスの感情が生まれるのではないかしら??ってことです。

外発的な理由とは何かといえば、「高い報酬」や「権威」「名誉」「羨望」など「煽られた欲」だろうと思います。
要は、煽られた欲で頑張ると無理が出るので、無理によって生まれるマイナスを埋め合わせてくれるだけの報酬が欲しくなってくるということです。

けれども「煽れられた欲」というのは現実との乖離や人との比較がないと発生しない。だから絶対に満たされないのですね。
かくしてほとんどの人が、「見合っていない」状態になり、こういった話にはマイナスの感情が付きまとうのだと思います。

「いやいや私は身の程に納得しているよー」という人も、もし「煽られた欲」で頑張った経験がある場合には、「納得」過程に「身の程を受け入れた」という頑張りが発生している可能性があるので、やはりマイナス感情を抱えやすいのだろうと思います。
「頑張ったのに」という発言に「そうか、頑張ったんだね!」という反応ではなく「みんな頑張っているんだよ」という反応が返ってくることがあるのは、そのためだろうと思います。

もちろん「頑張り」自体が悪いわけではなく、本人がちょっとも苦しくないのか、心底の充実感を持ってできているのか、ということが大切なのだろうなと思います。
「煽られた欲望」で人々が頑張りだすと、「頑張り」が世の中の「恨み」になってしまうのだろうなあ。。。

煽られない頑張りによって運営される社会(私)であれかし、とつらつら思うわけでした。

[日記:2023年9月24日]

タイトル画像は長年我が家で活躍してくれた鉄のフライパン。底の歪みがひどくなり、熱伝導にもムラが大きくなったので、お別れすることとなりました。長い間ありがとう…。モノを捨てるのは本当に寂しいものです。

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