日記:ボヴァリー夫人(読書中):何で今さら彼女の話を読まなきゃいけないのか?
ワールドカップが楽しいらしく息子が踊っています。私は全く興味がありません。さて。
フローベール 『ボヴァリー夫人』生島遼一訳。
うっかり読み始めました。歯医者に持っていく文庫本として、適当に手に取ったのです。わが家の本棚になぜかあった古い本です。
きっと家族の誰かが昔買ったのが、そのまま本棚に生き残っているのだと思われます。
フランス革命の数十年後。19世紀のフランスの物語です。
楽しいのは、当時の小説らしい細かな描写。
生活描写、風俗描写は生々しさがあります。
人の営みから生まれる細々とした奇妙な(その生活圏の中では意識されないほど当たり前の)生活習慣から、息遣いが立ち上るみたい。
風景描写は一筆ひとふで絵を描くように丹念です。
下手な海外旅行よりも臨場感があります。現地の空気が読者(私)の中で内面化される感じ。
一方で物語の一種の俗っぽさには、何で200年前のこんな週刊誌に載るような話をまた改めて事細かに読まなきゃいけないの?という気にさせられます。
「うんうん、そういう心境ね、田舎の地道な生活に価値を見出せず、街や芸術や富(や恋)に憧れた女性の話ね、今となってはステレオタイプで飽き飽きだって」とさえ思えます、現在までのところ。
でも何となく気になるので、「かっぱえびせん」や「柿ピー」をついついつまんじゃうようにぽつぽつと読んでいる。
これって主人公の女性エマ(エマの話が出てくるまで、女性の夫の幼少期から話が始まるのですが)のふわふわした憧れからくる自業自得の話(悲しい結末です、まだそこまで読んでないけど)なんだろうか、今の時代の価値観から光を当てたら違う面が見えるんじゃないか、そもそも人をステレオタイプに当てはめる時代が問題では、なんてことが思い浮かんだりする。
分かりやすい価値観や論理ですっぱり割り切れない、霞のようなモヤモヤが生まれて読者の中に乗り移り、そこで読者自身と一体化するというのが、物語の「できること」の一つだと思っているのですが、これもおそらくそういう物語。
モヤモヤが鬱陶しく、せめてもうちょっと読んだらモヤモヤがマシにならないか、視界が開けないか、などとと思ったりして何となくページをめくってしまう、そんな読書になっています。
おやすみなさい。
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