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これから離れる愛おしい街

わくわくすることが好きだ。

三大欲求を忘れ去るくらいの、子どものように夢中になれるものがほしい。

アドレナリンが過剰になるような、ゾクゾクすることがあれば、私はそれだけで生きていける気がする。

4月から関東へ向かう理由も根っこはおなじだ。

わたしは星が降るようなパチパチと弾ける興奮を求めて、生まれ育った高松をはなれる。

22年住んでいた土地、高松


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私は生まれも育ちも香川で、地元では比較的都会の高松市で生きてきた。

高松は田舎というには物があって、都会というにはのんびりしている。好みは人それぞれだろうけれど、私はこの土地が好きだ。

例えば、ごはん。

うどんはワンコインで食べられて、瀬戸内海に面するこの土地ではお魚も美味しい。(特に県魚のハマチ)
親鳥はお酒のアテにぴったりだし、元旦に食べるあん餅雑煮はあまじょっぱくて意外とハマる。

例えば、景色。

お気に入りは栗林公園で、平日の人がいない時間帯をさんぽすると気持ちよかった。
基本的には、"the 観光地" みたいな場所よりもなんでもないところの方が好きで。街中にあるスプレー缶の落書きのような、そこら辺にある小さいものの方が愛おしい気持ちにさせてくれた。

それから、高松のお店。

街にポツポツとある個人経営のお店とそこの店主さん。
私が感じる土地への愛着の大部分は、この人たちとの出会いによるものなのだと思う。


おもしろいお店と大人たち

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あまり知られていないけれど、高松は個人経営のお店が非常に多い。そして、店主さんが1人で営んでいるお店はチェーン店にはない魅力がある。

お店は、イコールでその人だ。

お店の雰囲気、営業形態、そして訪れるお客さん。
そこには、店主さんの人柄と思想がそのまま表れている。

私が高松で出会ったお店と店主さんたちは、不思議な魅力をたたえていた。

予約制の古本屋さんは、お客さんが居ても「コンビニ行ってくるんで自由に見ててください」と言ってふらっと出てくる人。突拍子もなく物事に精力的な様子だけれど、それでいて中身は穏和な人だった。

街の雑貨屋さんは、高松のおもしろい人が集まってくる場所で、店主さんは私がしょぼくれていると「とりあえず筋トレしな」と励ましてくるフィジカル型の人だった。

私を雇ってくれたカフェの店主さんは、カメラが好きでハッキリとした物言いをする人。お客さんも店員も大事にしてくれる、私が知るなかで最も人道的な経営者だった。

私が高松で1番お気に入りのカフェは、何時間でも過ごせそうなくらいに居心地がいい。経営しているマスターは体育会系で本の好きな人で、悩んでいることを打ち明ければ助言してくれる仏法僧のような人だった。

どの人との想い出もだれかに話せば「物語みたいだ」と言われるくらいに滑稽で奇妙な出来事ばかりで。だからこそ、あえて物語にしたくないことばかりなのだ。

それから、高松の店主さんたちとはまた違った関わりあいのある場所がある。そこは、4ヶ月という短い期間に不釣り合いな量のストーリーが詰まったところ。そして、私にとってのもうひとつの家だ。


わたしの家、燈屋

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きっかけは、古本屋の店主さんのTwitterだった。

コロナですっかり気が滅入っていた私は、ひたすらに"おもしろそうなこと"を探していた。そこに飛び込んできたのが、ゲストハウス「燈屋」の情報だった。

近くの書店さんで購入した本を寄付すれば宿泊費がタダになる"本泊"。

「おもしろそう」だと感じた私は、速攻で予約して燈屋のオーナーと出会い、そして初対面で喧嘩腰につっかかった。
かと思えば、急にしおらしく「住む家がなくて............」と懇願する私に「相談してくれて嬉しかった」と言ってくれた日が顔を合わせた2回目。
3回目に会ったときは、わたしの家まで来て引越しを手伝ってくれて、めでたくシェアハウスの住人として迎え入れてくれた日だった。

オーナー夫妻のことをはじめは「住まわせてくれる人」「ごはんを与えてくれる人」と認識していて、けれど過ごす時間が多くなるにつれて次第にわたしは懐いてしまった。調子のいい私は、2人のことを"里親"と呼んで慕っている。

最初は燈屋にただよう暖かい空気が苦手だった。それも入居したばかりの頃は目先のことと戦うのに夢中で、朝も夜も心が荒んでいた。
そんなときでも帰れば迎え入れてくれる人がいる、明かりの灯っている場所があることが救いになっていた。

たくさんの人と出会って、喜怒哀楽をくれて、たしかな暖かさで私を受け入れてくれた。わたしは燈屋がとても好きだ。

愛おしい街


あとほんのひと握りの時間を過ごしてしまえば、この街とさよならする。後悔はない。未練もない。不思議と"寂しい"と感じることもない。ただ、それはこの土地への情がないからではない。

この街は居心地がよすぎる。そして、その心地良さは私を生かしもするし殺しもする。だから、私は新しい土地でわくわくするものを探したいのだ。

この街への「さよなら」は「またね」でもあって、いつかの未来に発する「こんにちは」でもある。 私はいつかまたある「こんにちは」のために愛おしい街から離れるのだ。


余談だけれど、2021年3月12日。里親に子どもがうまれた。


里親の子どもだから私にとっての妹になるその子は、きっと燈屋にたずさわる全ての人たちから愛されて育つだろう。そして、その子を愛するひとりとして私はまた燈屋に帰ろうと思うのだ。

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